2019.1.20

〜 別れと出会いの恵み 〜
 今年も別れと出会いの時がやってきました。今までもたくさんの方と別れを告げ、またたくさんの方との出会いが与えられました。ある年は10人以上の方々が転勤や進学、引っ越しなどで離れていきました。これが地方の教会の宿命であるとよく言われてはきましたが、心の寂しさはかなり大きいものです。その反面、新しい方々との出7会いを通して得られる喜びと希望も大きいことは言うまでもありません。人間的な思いでは、別れることがなく、ただ新しい出会いだけがあればいいのですが、それは神の御心ではないので、神の御手の恵みを祈るのみです。
 さて、本日の礼拝では、H兄・I姉・Lくん、Kくんの派遣式が執り行われます。ご一家は2月初旬インドネシアへ3年間の滞在予定で旅立ちます。また、前回派遣式をしたS姉も1月末をもっていよいよ東京に旅立つことになります。本当に大切な愛の交わりを共にしてきた皆さんでした。今までの恵みに感謝しつつ、愛の主に再会の時をゆだね、祝福の祈りをもって送り出したいと思います。
 それから、来たる2月10日の礼拝では、A姉とY姉の転入会式を執り行なうことになりました。昨年から始まったA姉とY姉ご一家との楽しい交わりの時を経て、お二人の姉妹をキリストの体の一部分として、また神の家族として迎え入れることになりました。父なる神は、わが群れの別れの寂しさに替わる喜びを備えられたことでしょうか。いつも満たしてくださる主の御業を賛美します。
“祝福の源として”のアイデンティティーに生きる小泉町教会の神の家族お一人お一人を感謝しつつ。シャローム

2019.1.20

『 鹿のように 』 詩編42:1〜6)
 詩編42編は、祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民の嘆きの歌として知られています。異国、しかも異教の地で、「お前の神はどこにいるのか」と嘲られる時、神の人の心は破られるような痛みと苦しみを覚えます。まさしく神を知らない世界で信仰を貫くのは大変難しいことです。とりわけ現代の進化論や無神論が支配する世界の中で、クリスチャンに好意的な人や共同体を期待することはなかなかできない。その時襲ってくる失望、悲しみをどのように乗り越えることができましょうか。
 それに対し、詩人は、鹿が涸れた谷に水を求めるように、神を求めると宣言します。「水」は、命のある物にとっては命そのものであり、なくてはならない生命線です。詩編42編の詩人は、その命の水こそ、「命の神」であると告白します。私たちの神は人間を創造し、人間を救い、すべての罪を洗い清めてくださるお方、そして日々、命で満たしてくださるお方であるからです。
 初代教会の人々にはいつも身につけていたシンボルが二つありました。まず、魚の印がそれです。そして、もう一つがあまり知られてはいませんが、川の流れを慕い求める鹿のシンボルがそれでした。初代教会のクリスチャンたちは、迫害の中にあっても神様に魂が飢え渇いています、という信仰、その姿勢を現す印として鹿のシンボルをもっていたわけです。本当に美しい姿ではないでしょうか。もともと動物の中で、水に最も敏感なのが鹿だそうです。だからでしょう。昔から砂漠を旅する人がよく鹿を連れて旅をしていたそうです。
 本日の詩人は、私たちに「あなたの信仰の状態はいかがですか」と問いかけています。すなわち、私たちが救い主なる神を「鹿のように飢え渇きをもって求めているだろうか」という問いかけです。実に、「鹿(雌鹿)」のように神の恵みの水の流れを慕い求めるような時が、あなたの信仰生活の内に何回あっただろうか。今もあなたは神に飢え渇きを覚えているでしょうか。…聖書を黙想する中、神の恵みを知った人々の共通点とすれば、彼らは一貫して神の恵みを愛し、神の前に進み出て、恵みを慕い求めていたということにあるでしょう。そうです。神は慕い求める魂を愛し、恵みを注いでくださいます。主イエスの前で恵みを受けた人々の特徴も同じです。主イエスは恵みを求め、様々な壁を乗り越えてイエス様の前に出て、恵みを乞い求める人々には必ず応えてくださいました。
 しかし、現代のクリスチャンからは詩編の詩人のように、切に慕い求めるような姿が見えないような気がします。文明の発達と日々の忙しさのゆえに、神の前に近づくことができなくなっている現実かもしれません。神の御心は聖書時代のみならず、今も変わっていません。2019年が始まる今、「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」と歌いながら、主の御前に進み出て、恵みをいただく神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!

2019.1.20

 1月13日(日)-14日(月)に名古屋で行われた中部地方連合壮年会総会へ閔先生と行って来ました。天候は両日とも良い日和でしたが、昨年より参加者が少なく、中部地方からの献身者が0人であったことや、福井教会の現状と支援の在り方、役員改選等が話し合われ、やや重い印象の総会でした。それでも派遣礼拝の閔先生による宣教「福音伝道にこそ希望(列王記下7:3〜11)」に神様の御心をみました。小泉町の礼拝で以前語られた内容を今の壮年会に向けて改めて話されました。預言者エリシャの頃アラムとの戦いの中、四人の重い皮膚病患者が死を覚悟し敵の陣営に投降したところ、主の業によりそこは皆逃げ去った後でした。彼らは財宝を持ち出し、飲み食いしました。やがて彼らは我に返り、この良い知らせを同胞に伝えなければと思い直します。私達の受けた恵み、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを喜び、その良い知らせを他の人々にも知らせねば、という思いに神様は全ての必要を備えて下さいます。私達の前にある様々な問題は伝道によって解決されます。朝食の時に、ある牧師が信徒には牧師或いは主催者の心を持って欲しいと思いを語られました。牧師の先生方が日々の戦いの中で尽力下さっていることに感謝します。今回様々な主による諭しがあり、出来ることを模索しております。主の栄光が永遠にありますように。
                    S.Y兄

2019.1.13

〜 共に礼拝を考える 〜
 昨年10月から子ども礼拝が祝福のうちに行われています。二人の教師が”小さな礼拝者“を育て上げるために心を尽くされていることを感謝しています。昨年9月までは子どもたちが「子どもとともに」という、大人礼拝のある部分だけに参与してきたわけですが、今は子ども礼拝を大人礼拝と分離させ、礼拝のすべての時間を子どもたちのために、子どもたちが中心になって献げられています。3ヶ月間の子ども礼拝についての評価として、教師だけでなくお母さんや子どもたちからも喜ぶ声が聞こえています。今までいろいろな試行錯誤もありましたが、主が最善の時を与えてくださったと信じます。
 ただし、ここに一つ、神の家族と共に考えるべき課題が生じています。それは、子ども礼拝が毎週大人礼拝と同じ時間に行われるために、子ども礼拝に出席する二人、ないし三人の教師の皆さんが神の御言葉と恵みをいただける時間がなくなってしまうということです。もちろんしばらくは子どもたちの教師としての使命感や奉仕する喜びのゆえに問題は現れないでしょう。しかし、教師の皆さんが疲れや霊的渇きを覚える時がくるでしょう。そのため、教会共同体としての配慮が求められるのです。
 今のところ、大人礼拝の前にシンプルな礼拝の時間を設けるか、午後の時間を利用して賛美礼拝に近い明るめの礼拝を献げるかということを考えています。ぜひ、これからの礼拝のために神の家族も祈りの中で信仰と心を合わせて下さいますように…。シャローム

2019.1.13

『キリストの愛の豊かさを知る 』 (エフェソの信徒への手紙3:16〜19)
 18Cの有名な思想家のアンソニー・コリンズは、主日の朝、教会に向かう一人の労働者に聞きました。“あの教会堂におられる神という方の体格はどれくらいの方でしょうか。”と。それを聞いた労働者が答えます。“わたしの信じる神様はあの空を広げてもそれより大きい方です。そして、その神は、わたしの心臓にも入ってくださるほど小さなお方でもあります。”…神の家族の皆さんの頭の中に描いている神はどのようなお方でしょうか。
「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3:17〜18) 本日の聖書箇所のポイントとなる言葉は「知る」です。この言葉は、旧約聖書から新約聖書を貫通する、神が神の民に求められる言葉です。とりわけ聖書が語る「知る」という言葉は、頭で覚える知識的な知るという意味ではなく、体験的な知識であり、知識的な領域を超えて、体験を通して得られた知識のことです。その中でも“キリストの愛を知るように”とパウロは勧めているのです。
 ここでパウロは「キリストの愛」を四つの領域で知ってほしいと提示しています。“キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ”の四つの領域です。ある神学者は、“キリストの愛の広さとは、キリストの愛が、ユダヤ人だけでなく全世界、全人類を含むほど広く、また、その愛は一時的なものではなく永遠まで変わることのない長さをもっていて、また、どんな赦せない罪人にも及ぶほど深く、それから、すべての罪人を天の御国へとあげるほど高い!”と説明しています。そうです。私たちの神は、私たちが神を“もっと、もっと、知ってほしい”と望んでおられます。昨日よりは今日が、今日よりは明日が、明日よりは明後日が、キリストの愛の知識の広さ、長さ、高さ、深さが豊かとなっていくのが理想的なキリスト者のあり方であると言えるのです。
 私は新年の歩みを始めている神の家族の皆さんが、キリストの愛の満ちあふれる豊かさにあずかっていただきたいと願います。今までお一人お一人が知っているキリストの愛で満足せず、もっと満ち溢れる愛を知ろうとする熱情を失わないように…。私たちは皆、神によって創造された者、また、神の独り子の贖いによって生かされている者です。私たちの造り主なる神は、私たちにさらなる祝福のご計画をもっておられるお方です。それなのに、造られた者たちがそのことを知ろうとしない、求めようとしないのであれば、それはいかに悲しいことでしょうか。
 愛する神の家族の皆さん、イエス・キリストを通して示された神の愛は、わたしたちが頭の知識として置いておくものではありません。その愛は、実際の生活の中で見ることができ、手で触れられ、全人格を通して感動できる愛です。ハレルヤ!

2019.1.13

 新しい年が始まったのである。常日頃から、私の悪いくせであるが、口ぐせである「いそがしい」の言葉がつい出てしまうのである。他人は私のことを、決まった仕事もないのに忙しいはずがないと陰口を言っているらしいのがどことなく聞こえてくる。でも神様はじっと見つめて、いつも私を見守って下さると思っている。
 私は、ついに八十歳に昨年達した。今までの人生を振り返って見て、色々の事があり、また想い出す。まずこんなに長生きするとは思ってもいなかった。実母は八十八歳、義母は七十歳で逝った。
 私もそろそろ身の回りのことを片付けたいと思い、昨年末エンディングノートを買い求めてみたが、色々書くことがいっぱいあるのである。
 過去を振り返ってみて八十年の歩みとして私に出来ることは社会に奉仕すること。他人には迷惑をかけないこと。
 私の住んでいる地域の方々と共にボランティア、同年代の方々と交流、地元の催し物には出来るだけ、時間の許す限り参加。
 農作業は、新しい栽培の講習会等に参加。今までの経験を生かして試行錯誤の農業。教会の行事には出来るだけ参加。自分にできることは積極的に奉仕。色々と思っておりますが、ガンバリたいと思っております。
 祖母は、歳の始めに、玉虫をタンスに入れておくとお宝や吉報があると言って、愛用のタンスの中にそっと入れていたなあ・・・その祖母を懐かしむ時がたまにある。錆びたタンス、明治ごろの鉄の抽斗、ごとごと音を出す。
今年も良いことがありますように。
                      A.m姉

2019.1.6

〜古いものを捨てる決断へ〜
 元旦礼拝をささげた後、例年のように卓球大会を開きました。希望者は5歳のKくんから60代のS兄までの18名の神の家族が参加して熱く楽しい時を過ごすことができました。その中でも子どもたちの勝負への執念は凄まじかったですね。^^
ちなみに優勝者はハリヨ兄でした。拍手!!!
 さて、卓球大会の後、先日バプテスマを受けたA姉のリードで台所と受付側にある部屋を片付けました。今では使わない資料がたくさんありながら、なかなか手を出すことができないでいましたが、今回思いっきり片づけることになりました。片づけた後のその爽快感はいうまでもありませんね。
 毎年新年を迎える時に私の頭を悩ませるのが古いものを捨てるということではないかと思います。私も片付けが苦手なもので、牧師室の古本と資料はだんだんと積もっていくばかりでした。もちろん、荷を軽くしたいけど、なかなか実行できない自分に呆れてしまうのが現実でした。まるで主イエスがペトロに語られた“心は燃えても、肉体は弱い”という言葉が自分に当てはまるような気がするのです。
 神の家族の皆さんはいかがでしょうか。ずっと、捨てたい捨てたいと思っているけれど、時間だけが流れてしまってはいませんか。その捨てたい目録にあるのは、物品かもしれませんし、良くない習慣や、性格的なものかもしれません。神の家族もぜひ私と一緒に捨てるべき目録をチェックしながら実行に移してみませんか。聖霊の助けを祈りつつ、肉体的、霊的爽快感を味わうことのできる神の家族でありますように・・・。シャローム