2019.1.6

『 神と人の共同作業 』(マルコによる福音書1:4〜11)
 新年、明けましておめでとうございます!!!
 主イエス・キリストの恵みと平和が2019年新しい歩みを始める神の家族の上に豊かに注がれますように・・・。
 神は神の国の福音を伝え、完成するために人と共に働かれます。もちろん全能なる神ゆえ何でもお出来になるお方ではありますが、旧約から新約聖書にわたるいつの時代においても、神は人を選び御心を示され、その人の賜物と従順を用いて御業を成し遂げられました。
 本日の聖書の御言葉においても、神はイエス・キリストの道を整えるためにバプテスマのヨハネという一人を選ばれ、彼を用いられます。福音書の証言によれば、バプテスマのヨハネ預言者エリヤの再来であり、「荒野で叫ぶ声、主の道を整える人」として紹介されています。以前、バプテスマのヨハネの宣教をした時、彼のことを「指差す人ヨハネ」と表現しました。その通り、ヨハネはひたすら、自分ではなく、自分よりもっと偉大な方メシアを指し示す者としての使命に徹した人生を貫きました。ヨハネの姿にキリスト教会の働き人に求められる姿勢が示されています。
 そのヨハネの前に、主イエスバプテスマを受けるために進んで来られました。すべては御業を成し遂げるためだったのです。バプテスマは「罪の赦し」の意味をもつもので、罪のない主イエスバプテスマを受けるとはあり得ないことでした。それでは、なぜ神である主イエスバプテスマを受けられたのか、それこそご自身を徹底して罪人のようにされるためでした。主イエスは罪人としての喜怒哀楽を生きている人々のただ中に入って来られ、共に泣き、共に笑われ、共に歩まれるために罪人の受けるべきバプテスマを神の人ヨハネより受けられたのです。
 バプテスマのヨハネイエス・キリストの出会いを神も大いに喜ばれたことでしょう。聖書は、“主イエスバプテスマを受けられた後すぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように御自分に降られ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天からの声があった”ことを証言しています。
 2019年新しい年の歩みを始めようとするこの時、私たちはバプテスマのヨハネと主イエスの出会いと従順を通して学ぶべきメッセージをいただきましょう。まず、バプテスマのヨハネイエス・キリストに出会った時、この方こそ神の独り子メシアであることを悟りました。だから彼は躊躇することなく、自分自身を低くし、すべての栄光を主イエスに帰することを選んだのです。もちろん主イエスバプテスマのヨハネの御国の働きを認め、自ら進んでバプテスマを受けられ、聖書の預言の御言葉を成就されたわけです。この二人の共同の働きによって福音の業が始まったのです。
 父なる神は、今日もご自身と共に力を合わせて喜んで共同作業をする働き人を求めておられます。とりわけキリストの体なる教会を健康にし、福音伝道に励むために、神はあなたの従順を待っておられることを、ぜひ覚えましょう。ハレルヤ!

2019.1.6

バプテスマの証し・続き〜
 わたしは罪人です。教会での学びのなかで、自分が罪人であること、その罪の代価は死と滅びであることを知りました。そして、主イエス・キリストがわたしの罪を贖い、死と滅びからわたしを救うために十字架にかけられ、身代わりとなって下さったことを信じて、心から受け入れるようになりました。また、主イエス・キリストは死より復活され、いつもわたしと共に歩まれることを信じます。
 わたしは今まで自己中心的に生きていました。しかし、主イエス・キリストを救い主と信じた今、私は罪を悔い改め、自己中心的生活から神中心の生活へ、闇から光の側に歩み始めます。
 古いわたしはもういません。これからは御言葉に従って、神の愛のなかに生きます。   そして、自分が導いてもらったように、まわりの人の心にも灯火を灯せるよう、主イエス・キリストと共に残りの人生を愛と祈りをもって、歩みます。
 最後に、いつも温かく優しく、わたしたち家族を迎えてくださっている小泉町教会の みなさまに感謝します。これからは神の家族としてさらに深く交わり、愛し、共に歩ませていただきたいです。

    A.M姉

2018.12.30

〜天国からのプレゼント〜
 昨年のクリスマスの準備に励んでいた時、わが教会の愛するM兄が天に召されました。あまりにも突然の死だったので、別れの備えができてなく、大きな悲しみに包まれていたことを覚えています。一年が経った今もM兄の住んでいたアパートを通る時には、必ず彼の顔が浮かんできます。そして、“先生、元気ですか。私は天国で幸せですよ!”と声をかけられるような気がするのです。
 そしてちょうどM兄が召天されて一年が経ったある日、彼がお世話になっていたアパートの大家の方から電話がかかってきました。“この一年間、彼の部屋の荷物などを取りに来る人がいるかと待ってみたけど、誰も来なかった。もうこれで、部屋を綺麗にしたいので、何か必要なものがあればもっていってほしい!”とのことでした。
 先日、教会の執事を中心にM兄の部屋を訪ね、使えそうなものをまとめてもって帰ってきました。もともとオシャレだったM兄らしくきれいな服がたくさんありましたし、靴やベルト、財布などが目につきました。荷物を片づけながら自然とM兄の話が話題となり、みんな笑みを浮かべるひと時を過ごすことができました。…彼の服や靴は路上で生活する方々とバザーのために、彼の乗っていた自転車は交通手段のない兄弟に渡されました。また、彼が楽しんでいたテレビやビデオは子ども礼拝のために用いることにしました。そして大家の方からは感謝の献金をいただきました。
 今年のクリスマスは、天に召されて一年が経った天国のM兄からの思いもよらなかったプレゼントで心温まる時となりました。“M兄、ありがとう!また、天国で小泉町教会のために執り成している神の家族に感謝します。”

2018.12.30

『 神の戦いにゆだねる 』(歴代誌下20:13〜19)
 今日の聖書の箇所にはモアブ人、アンモン人などの連合軍がヨシャファトのユダ王国を攻めてきた時のことが記されています。その時、ユダ王と民らは恐れを覚え、神の前に嘆願の祈りをささげます。その時、神を礼拝していたレビ人ヤハジェルに主の霊が臨み、神の約束が語られます。「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。・・・その時、あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。・・・主が共にいる。」(20:15〜17)と。
 わたしたちの神は、神の子どもたちの戦いにおいて、決してわたしたちだけの戦いとして放ってはおかれません。神は神を信頼し神を賛美する子どもたちと共におられる。だからこそ、神は子どもたちだけの戦いにしないで、神の戦いに替えてくださるのです。ユダ王を中心としたユダの人々は、主の聖なる輝きをほめたたえる聖歌隊を中心に、神の御業を賛美し始めます。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」・・・イスラエルの民は神が今戦ってくださることを期待しての讃美にとどまらず、共におられる神ご自身のゆえ、今まで成し遂げられた御業ゆえの感謝の賛美をささげはじめたところ、神は彼らに驚くべき勝利をプレゼントされたのです。
 2018年の戦いを終え、新しい一年の戦いの旅を始めようとする神の家族の皆さん、わたしたちの日々の生活においては、絶えずこの世の悪しき力と罪からの攻撃に遭ってきましたし、これからも遭うことになるでしょう。日々、熾烈な戦いの中で、時には疲れ、失望し、倒れてしまうかもしれない。その時、わたしたちに出来ることは、この世的な力みと頑張りを捨て、ただその場において神を賛美することです。「この戦いこそわたしの戦いでなく、神ご自身の戦いなのだ!」という信仰をもって、すべてを神の御手にゆだね、賛美をささげるその時、わたしたちの戦いが、神の戦いへとその戦いの内容が変わっていき、神は神の子どもたちに勝利をもたらしてくださるはずです。
 神の家族の皆さんの日々におけるすべての戦いの場が、賛美の場、礼拝の場となりますように・・・。私たちを取り囲む敵へのつぶやきや嘆きの言葉でなく、イスラエルの民のように、「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」と賛美の声を上げることができますように・・・。その時に、主が共に戦われ、必ずや勝利をもたらしてくださるのです。

2018.12.30

バプテスマの証し①〜
 わたしは何年も苦しんでいました。一人で重荷を背負い、どこに歩んで行けばよいかもわからずに、ただ、その場で、時が流れていくのを待つだけの途方に暮れた何年かを過ごしました。
 苦しい現実とは向き合わず、起こった問題に背を向け、逃げてばかりいました。楽になりたいと、自分の頭でいろいろなことを考えましたが、何を考えても、何を行なっても、解決にはならず、私は疲弊していくばかりでした。
 閔先生は何年間もそんなわたしを教え励まし、「祈っていますよ。」「愛されていますよ。」と、根気よく何度も何度も言って下さり、導いてくださいました。
 そんなわたしは、2017年に看護学校を受験しました。受験日当日、試験が始まる前、わたしは自然に机の下で手を組み、強く強くお祈りしていました。「どうかどうかお護りください。」・・・本当はその時、神の愛にわたしは触れていました。
 無事、看護学校に合格し、看護学生として学ぶ、本当に忙しい毎日が始まりました。看護の学びのなかで、わたしは、神様の事を考える時間が長くなっていきました。
 死期を迎える終末期の患者さんと関わるなかで、わたしが見たものは、人は死ぬ時、何かを持っていけるわけでも、誰かと一緒にいけるわけでもない。と、いう事でした。
 人が死ぬ時、共にいて、一緒にいって下さるのは、確かに神様だけでした。その時、わたしは、信仰を持ちたい。と思いました。(つづく)
               A.M姉

2018.12.23

バプテスマを喜ぶ 〜
 本日の礼拝の中で、A姉のバプテスマ式が執り行われます。A姉との交わりは、今から10年ほど前に遡ります。三人のお子さんのお母さんとして頑張りながら、いつも笑顔で振舞う彼女の姿に感心していたことを覚えています。富山に来て間もなかったわが家にも、親しく交わってくれた姉妹でした。だからこそ、本日のバプテスマ式が格別です。バプテスマへと導かれるまで、神は何度もA姉の心を叩かれたことでしょう。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(ヨハネの黙示録3:20)。・・・御言葉通り、いつの間にか神は彼女の心に受け入れられ、彼女の生活に様々な変化を起こされたことを感じます。
 今まで多くの方のバプテスマ式を授けてきましたが、その中でも、A姉ほど質問攻めにされたことはありませんでした。常に気になること、納得いかないこと、分からないことがあれば、すぐ質問し、答えを求めました。その姿にわたしも答えられるように最善を尽くそうとし、バプテスマの学びが、計画通りなかなか進まない。とりわけ、2000年前の主イエスの十字架の出来事が、現代の自分と何の関係があるのかと、心から信じ受け入れることができない…。私も聖霊が彼女の心に、十字架の恵みと真理を教えてくださるようにと祈りつつ、もう一度最初から一つ一つと説明し始めたその時でした。彼女の目からウロコが落ちたかのように、“あ、わかった!”と叫んだのです。やっぱり神は素晴らしいお方!!!A姉との学びを通して示されたことこそ、“人はみんながそれぞれ違っていて、神はその一人一人に合わせ、ふさわしい時を備え、すべてを整えられるということです。
 クリスマスを迎え、昨日も、今日も、そして明日も絶えず皆さんの心の部屋をノックし続けられるイエス様に気づくことができますように、そして、お一人お一人がイエス様の招きに応えられる日が訪れますように…。シャローム

2018.12.23

『 大きな喜びの知らせ 』ルカによる福音書2:8〜15)
 メリークリスマス!!! 救い主の誕生、おめでとうございます!!!
 クリスマスの素晴らしい主の恵みが、クリスマス礼拝に集われたお一人お一人の上に、豊かにありますように・・・。
 “神が人となってこの地に来てくださった!”・・・この知らせほど驚くべき素晴らしい知らせがあるでしょうか。そのことを、2000年前の天使たちは声高らかに歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と。
 ベツレヘム周辺の野原で、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちは、真夜中にまるで神の山ホレブでモーセがそうであったように、神の栄光の光に包まれました。今まで経験したことのない光景に畏れおののきつつ、天使たちより、「民全体に与えられる大きな喜びとなる希望に満ちた知らせ」を告げられます。“天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10〜11)” 聖書の中で「大きな喜びの知らせ」とは、“メシア(救い主)の誕生の知らせ”を指す言葉です。天使たちは、“イスラエルの民らが待っていたメシアがついに来られた!”と宣言します。しかし、そのメシアはある日突然、立派な馬に乗ってやってくる英雄や超人の姿ではありませんでした。むしろ、真のメシアは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子として来られた。…家畜の飼い葉桶に来られたみどりごが語るメッセージは、大きな感動を与えてくれます。最も弱い赤ちゃんとして、しかも飼い葉桶という低いところに来てくださったメシア・・・だから、神は私たちのいかなる苦しみも弱さも執り成すことができるのです。ヘブライ4章15節に記されているように、“主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではなく、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたお方”であるのです。“だから、私たちは憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けをいただくために、大胆に恵みの場所に近づく“ことができるのです。そうです。一人の罪人が主イエスの招きに応え、今までの自己中心の生活を悔い改め、神中心の人生を生きることを決断し、神の助けを求め近づく時、憐れみ深い神は、その人を新しく造り変え、神の子どもとして受け入れてくださるのです。その大きな喜びの印となっているのが、バプテスマです。ルカによる福音書15:7では、一人の罪人の悔い改めがもたらす天と地をつなぐ喜びについて次のように記してします。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 クリスマスに示された大きな喜びの知らせは、イエス・キリストを心に受け入れた一人の罪人に起きる悔い改めと、神の子どもとしての新しい歩みを宣言するバプテスマを通して完成するのです。本日執り行われる有賀姉のバプテスマ式を通して、天と地をつなぐ神の大きな喜びを、共に味わうことができますように祝福します。ハレルヤ!