2019.1.13

『キリストの愛の豊かさを知る 』 (エフェソの信徒への手紙3:16〜19)
 18Cの有名な思想家のアンソニー・コリンズは、主日の朝、教会に向かう一人の労働者に聞きました。“あの教会堂におられる神という方の体格はどれくらいの方でしょうか。”と。それを聞いた労働者が答えます。“わたしの信じる神様はあの空を広げてもそれより大きい方です。そして、その神は、わたしの心臓にも入ってくださるほど小さなお方でもあります。”…神の家族の皆さんの頭の中に描いている神はどのようなお方でしょうか。
「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3:17〜18) 本日の聖書箇所のポイントとなる言葉は「知る」です。この言葉は、旧約聖書から新約聖書を貫通する、神が神の民に求められる言葉です。とりわけ聖書が語る「知る」という言葉は、頭で覚える知識的な知るという意味ではなく、体験的な知識であり、知識的な領域を超えて、体験を通して得られた知識のことです。その中でも“キリストの愛を知るように”とパウロは勧めているのです。
 ここでパウロは「キリストの愛」を四つの領域で知ってほしいと提示しています。“キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ”の四つの領域です。ある神学者は、“キリストの愛の広さとは、キリストの愛が、ユダヤ人だけでなく全世界、全人類を含むほど広く、また、その愛は一時的なものではなく永遠まで変わることのない長さをもっていて、また、どんな赦せない罪人にも及ぶほど深く、それから、すべての罪人を天の御国へとあげるほど高い!”と説明しています。そうです。私たちの神は、私たちが神を“もっと、もっと、知ってほしい”と望んでおられます。昨日よりは今日が、今日よりは明日が、明日よりは明後日が、キリストの愛の知識の広さ、長さ、高さ、深さが豊かとなっていくのが理想的なキリスト者のあり方であると言えるのです。
 私は新年の歩みを始めている神の家族の皆さんが、キリストの愛の満ちあふれる豊かさにあずかっていただきたいと願います。今までお一人お一人が知っているキリストの愛で満足せず、もっと満ち溢れる愛を知ろうとする熱情を失わないように…。私たちは皆、神によって創造された者、また、神の独り子の贖いによって生かされている者です。私たちの造り主なる神は、私たちにさらなる祝福のご計画をもっておられるお方です。それなのに、造られた者たちがそのことを知ろうとしない、求めようとしないのであれば、それはいかに悲しいことでしょうか。
 愛する神の家族の皆さん、イエス・キリストを通して示された神の愛は、わたしたちが頭の知識として置いておくものではありません。その愛は、実際の生活の中で見ることができ、手で触れられ、全人格を通して感動できる愛です。ハレルヤ!