2019.1.20

『 鹿のように 』 詩編42:1〜6)
 詩編42編は、祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民の嘆きの歌として知られています。異国、しかも異教の地で、「お前の神はどこにいるのか」と嘲られる時、神の人の心は破られるような痛みと苦しみを覚えます。まさしく神を知らない世界で信仰を貫くのは大変難しいことです。とりわけ現代の進化論や無神論が支配する世界の中で、クリスチャンに好意的な人や共同体を期待することはなかなかできない。その時襲ってくる失望、悲しみをどのように乗り越えることができましょうか。
 それに対し、詩人は、鹿が涸れた谷に水を求めるように、神を求めると宣言します。「水」は、命のある物にとっては命そのものであり、なくてはならない生命線です。詩編42編の詩人は、その命の水こそ、「命の神」であると告白します。私たちの神は人間を創造し、人間を救い、すべての罪を洗い清めてくださるお方、そして日々、命で満たしてくださるお方であるからです。
 初代教会の人々にはいつも身につけていたシンボルが二つありました。まず、魚の印がそれです。そして、もう一つがあまり知られてはいませんが、川の流れを慕い求める鹿のシンボルがそれでした。初代教会のクリスチャンたちは、迫害の中にあっても神様に魂が飢え渇いています、という信仰、その姿勢を現す印として鹿のシンボルをもっていたわけです。本当に美しい姿ではないでしょうか。もともと動物の中で、水に最も敏感なのが鹿だそうです。だからでしょう。昔から砂漠を旅する人がよく鹿を連れて旅をしていたそうです。
 本日の詩人は、私たちに「あなたの信仰の状態はいかがですか」と問いかけています。すなわち、私たちが救い主なる神を「鹿のように飢え渇きをもって求めているだろうか」という問いかけです。実に、「鹿(雌鹿)」のように神の恵みの水の流れを慕い求めるような時が、あなたの信仰生活の内に何回あっただろうか。今もあなたは神に飢え渇きを覚えているでしょうか。…聖書を黙想する中、神の恵みを知った人々の共通点とすれば、彼らは一貫して神の恵みを愛し、神の前に進み出て、恵みを慕い求めていたということにあるでしょう。そうです。神は慕い求める魂を愛し、恵みを注いでくださいます。主イエスの前で恵みを受けた人々の特徴も同じです。主イエスは恵みを求め、様々な壁を乗り越えてイエス様の前に出て、恵みを乞い求める人々には必ず応えてくださいました。
 しかし、現代のクリスチャンからは詩編の詩人のように、切に慕い求めるような姿が見えないような気がします。文明の発達と日々の忙しさのゆえに、神の前に近づくことができなくなっている現実かもしれません。神の御心は聖書時代のみならず、今も変わっていません。2019年が始まる今、「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」と歌いながら、主の御前に進み出て、恵みをいただく神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!