2016.4.3

 最近、読書に集中できなくて、すぐに眠くなるようになっていました。年かなと思っていたのですが、もしかして、老眼かも?と気づき、老眼鏡をあつらえました。そうすると、再び読書に集中できるようになったのです。 
 信仰の世界でも、同じようなことがあると思います。イエス様というレンズを通さないと、はっきりと見えないのに、自分の目だけに頼ってしまいがちです。そのために、どれほど、失敗をしてきたことか。・・・過去に戻って、やり直せたらと思うことがたくさんあります。特に子育てにおいて・・
 でも、イエス様のレンズを通して教えられることは、過去を悔やむのではなく、今を感謝して喜んで生きることです。もっと早く老眼鏡を買っていれば、もっとたくさんの本を読めていたはずですが、それを悔やむ暇があったら、老眼鏡の助けを借りて、今、一生懸命読書をしたほうが良いに決まっています。
 同じように、和解と回復をもたらしてくださる神様を信じて、イエス様に祈り、イエス様からの知恵をいただいて、今、できることを精一杯やりたいなあと思うのです。そうしていると、子どもたちが生きて存在してくれていることが、どれほどありがたいことかと、しみじみと思うのです。
              K.K 姉

2016.4.3

〜 みんなで花園作ろう 〜
 ♪みんなで花園つくろう 花を咲かそう。世界の人に御神の 愛の花咲かせましょう。
♪福音の種を蒔こう 花を咲かそう。真心こめて十字架のみことばを 伝えましょう!!!

 ハレルヤ!2016年度が始まりました。この一年、52週ある主日礼拝と小さな群れのすべての歩みが、すべてを新しくされる神の御手に委ねられ、新しくなることを期待したいと思います。
 先週から牧師館の前の花壇を整備しています。「小泉町教会の第一印象」を与える場所であるのに、あまりその役割を果たしていないと思ったからです。毎年春が来て花が咲けば、それなりに美しくは見えますが、花が散ってしまうとジャングル化してしまう現実です。神の家族と相談し、いろいろと悩んだ末、まったく新しい花を植え、花壇を一新することに至りました。しかし、そんな中で一番悩まされているのが、以前植えてあった花の根っこがあまりにも頑固で、また深く広がっているということです。新しい花を植えたり、種を蒔いたりしてもその頑固な根っこのせいでなかなか芽を出したり、根付いたりすることは期待できない状況です。
 最初に「みんなで花園つくろう」というゴスペルの歌詞を書きましたが、まさに今年度わたしたちは力を合わせ、新しく美しい花園をつくり、神と周りの方々に喜んでもらいたいと思います。そのため花壇の根っこを綺麗に取り除き、新しい土を補充し、肥料をやり、新しい花を植え育てるという過程が残っています。ぜひ力を合わせましょう。そして、目に見える花壇だけでなく、聖霊様に神の家族お一人お一人の内側の花壇にある古くて頑固な根っこを取り除いていただき、喜びと恵みの新しい花を咲かせ、良き香りを漂わせる一年となりますように・・・。シャローム

2016.4.3

 『 光の子として歩む 』(エフェソ5:8〜10、イザヤ60:1〜2)                     
 わたしは画家のレンブラントの描いた絵が大好きです。レンブラントは「光の画家」、「光の魔術師」と呼ばれているほど、彼の絵には、人生の闇と人生における疲れと悲しみがそのまま現れています。レンブラントは人間の存在の根底にある闇と不安、痛みを隠そうとしません。だから、彼の絵は暗いです。しかし、彼の絵が絶望的ではないのは、真っ暗な闇を照らす一筋の光があるからです。わたしはその光に感動し、上からの慰めを得るわけです。
 キリスト者は、光に出会った人です。その光こそ、神からの光で、イエス・キリストの死と復活を通して照らされている光です。聖書はその光を受け入れた人のことを「光の子」と呼んでいます。そして光に出会った人々は、多くの場合、深い暗闇の前で絶望した経験をもつ人々であったことが分かります。深い暗闇を経験したからこそ、光の素晴らしさ、その感動と恵みを生きることができるからです。わたしもその内に一人であったことを告白できます。あなたはいかがでしょうか。
 本日与えられている聖書箇所は、まさにそのような経験をした人に贈る御言葉です。“あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。”(エフェソ5:8)
 今わたしたちが生きている世界は、御言葉にあるように、暗闇がますます力を増しているような世界です。どこを見ても出口の見えない、生きる希望さえ失ってしまうような暗闇に覆われている状況です。ここで求められる働きこそ、「光の子」であるキリスト者が立ち上がることです。“光の子として歩む”とはどういう意味でしょうか。それは、この暗闇の世の空しいことに心を奪われることなく惑わされないで生きるということです。そのため光の子は“主が喜ばれることを吟味して行なう”(エフェソ5:10)ことを求められています。すなわち、自分自身の思いや自分自身の喜びのためではなく、神の御心を成し遂げるために、自分自身を喜んで差し上げることです。
 2016年度、「世の光となる一人のキリスト者、世の光となる教会共同体」というビジョンを抱いて進みたいですね。光の子として、暗闇の中を歩む周りの人々を心から憐れみ、もっている光を隠すことなく、口をもって、また愛の行いをもって輝かすことです。わたしたちの照らす光に暗闇から救われる人が起こされますように・・・。ハレルヤ!