2016.4.3

 『 光の子として歩む 』(エフェソ5:8〜10、イザヤ60:1〜2)                     
 わたしは画家のレンブラントの描いた絵が大好きです。レンブラントは「光の画家」、「光の魔術師」と呼ばれているほど、彼の絵には、人生の闇と人生における疲れと悲しみがそのまま現れています。レンブラントは人間の存在の根底にある闇と不安、痛みを隠そうとしません。だから、彼の絵は暗いです。しかし、彼の絵が絶望的ではないのは、真っ暗な闇を照らす一筋の光があるからです。わたしはその光に感動し、上からの慰めを得るわけです。
 キリスト者は、光に出会った人です。その光こそ、神からの光で、イエス・キリストの死と復活を通して照らされている光です。聖書はその光を受け入れた人のことを「光の子」と呼んでいます。そして光に出会った人々は、多くの場合、深い暗闇の前で絶望した経験をもつ人々であったことが分かります。深い暗闇を経験したからこそ、光の素晴らしさ、その感動と恵みを生きることができるからです。わたしもその内に一人であったことを告白できます。あなたはいかがでしょうか。
 本日与えられている聖書箇所は、まさにそのような経験をした人に贈る御言葉です。“あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。”(エフェソ5:8)
 今わたしたちが生きている世界は、御言葉にあるように、暗闇がますます力を増しているような世界です。どこを見ても出口の見えない、生きる希望さえ失ってしまうような暗闇に覆われている状況です。ここで求められる働きこそ、「光の子」であるキリスト者が立ち上がることです。“光の子として歩む”とはどういう意味でしょうか。それは、この暗闇の世の空しいことに心を奪われることなく惑わされないで生きるということです。そのため光の子は“主が喜ばれることを吟味して行なう”(エフェソ5:10)ことを求められています。すなわち、自分自身の思いや自分自身の喜びのためではなく、神の御心を成し遂げるために、自分自身を喜んで差し上げることです。
 2016年度、「世の光となる一人のキリスト者、世の光となる教会共同体」というビジョンを抱いて進みたいですね。光の子として、暗闇の中を歩む周りの人々を心から憐れみ、もっている光を隠すことなく、口をもって、また愛の行いをもって輝かすことです。わたしたちの照らす光に暗闇から救われる人が起こされますように・・・。ハレルヤ!