『 十字架の苦難を乗り越えて 』(詩編22:2〜3、ヨブ記23:10)

本日の宣教 2011.4.17
非のうちところのない人と言われていた一人の人がいました。神からも隣人からも賞賛を受けていた人、信仰だけでなく家庭においても、経済的においても、社会的においても、すべての面において祝福され満たされていた人でした。もし、世界で“完璧な人”を一人探すことになったら、真っ先に名前が挙がりそうな人、その人がヨブでした。そんな彼を神は誇りに思い愛してくださいました。しかし、ある日、突然彼の身と身の周りに次々と悲劇が襲ってきます。10人の子どもと全財産を失い、しかも自分自身もひどい病気にかかり、妻にも裏切られるという、恐らくこれ以上はないだろう思われる苦難に遭います。
 なぜこのような悲劇が起きたのだろうか、神がいるのであればなぜこれらのことに沈黙するのか、理由なき苦難を前にしてわたしたちは深い失望と戸惑いに陥ってしまいます。キリスト者にとって神が沈黙されるような時こそ本当の苦しみです。神に祈っても、叫び求めても、神から何も聞こえてこないような状況。まさに十字架を前にしている状況です。その時告白するヨブの言葉に耳を傾けてください。“神はわたしの歩む道を知っておられる。神がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。”(ヨブ23:10)・・・ヨブは今現在の十字架の苦難の理由は知りませんでした。しかし、彼は確信がありました。“この十字架の苦難を通れば、神は純金のように輝かせてくださる”と。
 十字架の苦難と苦しみは限られた人だけが経験するものではありません。聖書の偉大な信仰の人物のほとんどが味わったことでありました。そして最後に、十字架そのものを神の独り子が背負われました。その主イエスの十字架の死によってわたしたちは生きるようになったのです。
 今日から受難週に入ります。主イエスの十字架の道を辿りながら、わたしたちが背負っている十字架の意味、その上に注がれる主イエスの執り成しと苦難を乗り越える力をいただきたいと願います。この季節、十字架を通ってこそ復活の勝利が約束される神の御心にすがりましょう。ハレルヤ!