2011.7.3

『 パン一つ、一つの体 』(ヨハネによる福音書6:53〜58、Ⅰコリントの信徒への手紙10:16〜17)
  主の晩餐は、一つのパンを分かち合うことによって、みんながイエス・キリストの一つの体になる神秘を教えてくれます。イエス様の心と精神が人々のうちに入ると人々は一つとなる一致の喜びを味わうことになるのです。主の晩餐には、あなた、わたしの区別や差別はありません。好きな人も、嫌いな人もありません。主の晩餐は互いへの感情や気分をすべて取り除き、ただ、イエス様の体の一部分として一人一人を受け入れるように働きかけてくれます。使徒パウロもこの神秘をこのように表現しているのです。“そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。”(ガラテヤ3:28) 
 今現在、「主の晩餐式」はどこの教派や教団にしても、一般の人にはなかなか近づけないような厳粛さと神秘的なイメージを漂わせているのかもしれません。・・・だからでしょうか。ある神学者は「教会を表す象徴は、主の晩餐式の時に用いられる綺麗で立派な道具ではなく、イエス様が弟子たちの足を洗う時使われた“タオルとタライ”にすべきだ」と言いました。一理ある言葉だと思います。最初の主の晩餐は素朴そのものでした。ただの食卓共同体であり、その中でイエス様は神の国を語られ、どのような罪人も招いてくださったのです。
 先日、知的障害をもつ子どもたちの通っている止揚学園の方々が教会を訪ねて来られましたが、数年前、止揚学園の先生方が語られた言葉を忘れません。止揚学園の生徒たちは、主の晩餐式の時になると、みんな拍手しながら、“イエス様、ありがとう!”と、パンと杯を分かち合うことを喜び、感謝の歓声をあげて参与するとの話でしたね。小泉町教会の神の家族は主の晩餐へのどんな思いをもって参与しているでしょうか。
“パンは一つ、わたしたちはイエス・キリストの一つの体です。”