2013.4月21日

『力の源』      イザヤ40:22−31      田口 昭典牧師 
 ヤコブイスラエルとは神の愛する民という事。神の愛に包まれ、神の所有物とされた私たちの事。私たちはイスラエル民族の一員ではありません。しかし、イエスを救い主と信じる信仰において神の民とされているのである。ヨハネとともに、血筋によらず、肉の欲にもよらず、神の選びとめぐみによって私たちは神の民となった。
 私たちの直面する現実はいつも順風満帆とは限らない。「神はいるのか?」と叫びたくなる現実がある。自分の弱さを恥じる事はない。かえって、弱さを誇ろう。私が弱いときに強いのだと言うパウロの言葉のように神の力によって強くされよう。
 聖書の民はつぶやいた。神様は私たちの事を分かっていないと。私たちの悪い癖は、自分の信仰の秤で、神も自分も人も計ってしまうという事です。神様を小さくしてしまうのです。神を自分の思いの中に閉じ込めてしまいます。神の力に限界を造り、「これは無理だ」と言って信頼しなくなります。
 神は何と言われているか?倦む事なく、疲れる事なく、英知は計り知れないのが私たちの神です。私たちの思いを遥かに超えているのが神です。世界を支配される方です。歴史を見れば分かる事ですが、ローマ帝国も、モンゴル帝国も、大日本帝国もみな滅びました。神の許しがなければ、国も立ち行かないのです。
 目を高く上げよ。心を高くあげよ。心の目を神に向けよ。神には一つも欠陥がなく、ミスも失敗もない。神の計画と導きは完璧なのです。その神は、私たち一人一人を知っていて、私の名前を呼んで導かれるのです。
 私たちに求められている事は、ただ信じる!ということです。神はみ子イエスを十字架の上に殺してまで、私たちを愛する神です。祈った事は既に叶えられたと信じて歩む事が期待されています。私たちの力の源は神です。私たちに力があるのではありません。弱さと罪、どん底から立ち上がる力は、神からくるのです。みんな疲れるし、やりきれなくなるし、行き詰まり壁に打ち当たります。そのとき、自分を責めない。静かに神の前に出る。弱さを認め、祈って待つのです。
 鷲は翼を広げ、上昇気流にのって自由に飛びます。風は神の息。聖霊の導きに委ねます。信仰の翼を一杯に広げます。そのとき、神の力が私を捉えるのです。私自身を明け渡して神の息、聖霊の導きに委ねて、主の時を待ちます。あなたは必ず、力を受けて立ち上がるのです。