2014.4.13

『 十字架につけられた神の独り子 』(ヨハネ福音書3:16〜17、ガラテヤ2:19〜20)
 昔から人は、死について語ることを避けているように見えます。できることなら、死に近づくことも、死について触れることも好みません。ですから、自然災害や戦争、テロなどで、多くの死者が出たというニュースを耳にすると、まず、私の身にそれが起きてないことに安堵し、あえて言葉にしようとはしません。それが死に対してのこの世の考え方です。
 しかし、不思議なことがあります。キリスト教では「十字架にかかって死んだ方によって救われる」という言葉を伝えているし、イエス・キリストの死を感謝し喜ぶ宗教であるわけです。しかも、イエス・キリストがかけられ死んだ道具であった「十字架」という処刑道具をキリスト教のシンボルにまでしています。しかし、この十字架という処刑道具は、ローマ時代において人を殺す目的で作られた最も残虐な死刑の方法だったのです。ですから、当時のローマの人々にとって、『十字架』と言う言葉を口にするだけで汚れてしまうという「呪われたもの」であったわけでした。それなのに、「十字架を誇り、十字架で死んだイエス」をほめたたえるキリスト教の信仰というのに対して理解に苦しむことは当然のことだったのでしょう。 
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)・・・私たちは、このヨハネ福音書3:16節の箇所を通して、私たちがもっている偉大なる愛の源について、その愛の大きさが、神の大いなる愛の行動が、神の最高のプレゼントが、信仰という通路を通して私たちに与えられ、誰でも神の独り子を信じることで滅びることなく永遠の命を得ることを知ることになります。
 しかし、神が神の独り子をわたしたちにプレゼントとしてくださるために、選ばれたのが「十字架」でした。その十字架に神の独り子がかけられ死ぬことによって十字架は救いと神の究極の愛のシンボルに変えられたのです。十字架は死です。そして十字架は命です。十字架はアクセサリでも、お守りでもありません。十字架こそ、私たちが選ぶべき生活の方式なのです。ハレルヤ!