2014.7.6

『 泣きながら夜を過ごす人へ 』(詩編30:1〜13)
 本日の詩編30編はダビデの詩と知られています。私たちはダビデが書いたとされる他の詩を見て分かるように、彼は喜怒哀楽といった多様な信仰の体験を身に着けていた人でした。特に、ダビデの詩がわたしたちに大きな恵みを与える理由は、彼の人生が普通のクリスチャンであれば誰もが経験するだろう出来事を詩の言葉に変えているということでしょう。特に、私たちはダビデと神様との霊的な深い交わりを描いている詩を通して、大きな恵みと励ましをいただくことになるのです。
 最近、私たちは神の家族の病や試練のゆえに、時には涙したり、不安に覆われたり、信仰が小さくなるような時を過ごしました。目の前に見えるものに心を奪われてしまい、神につぶやきたくなる日々でした。しかし、クリスチャンの目は目に見えるものにとどまらず、目に見えないものに信仰と心をとめるのです。まだ、私たちの目に見えないけれども暗闇の後には必ず朝の黎明が来ることを知っていますし、陰府に下ったとしてもそこから引き上げられ命を得させる神の力を信じることです。そして、今は粗布を着て嘆いてしまうけれど、後には喜びを帯とさせられ、踊りへと導かれることを夢見ているのです。ここに、クリスチャンの信仰の素晴らしさがありますし、生きておられる神の約束を楽しみに待つことができるのです。
 神の家族の皆さん、私たちは状況に揺れ動かされて意気消沈する弱い存在です。しかし、神は弱さの中にイエス様の十字架の癒しと復活の命の力強さを教えてくださったのです。決して、苦難や試練が私たちの信仰を小さくさせたり、絶望に陥れることはないのです。なぜならば、イエス・キリストの十字架が私たちの苦難と試練の只中で働いてくれるからです。求められるのは、傷を抱えたまま、ありのままの姿で、神の御もとに進み出ること、そうするならば、私たちの人生を変える何かが、わたしたちの内側からゆっくりと起こり始めるのです。神がどのように働かれ、癒しへと導かれるのかを発見することになるのです。また、私たちの抱えている
問題や傷跡をイエス様の十字架の御前に率直にもっていくとき、私たちは癒される主の御手に出会うことになるでしょう。ハレルヤ!