2014.11.16

 『憐れみ深い人々は、幸いです』(マタイ福音書5:3〜10)
 本日は、イエス様の山上の説教における8つの幸いのうち、5つ目の幸いの内容です。          
 「憐れみ」いう言葉は、「かわいそうに思う心、慈悲、同情」という辞典的意味をもっています。立場上の高い所にいる人が低い所にいる人に対して「何かをしてあげる」という意味で使われていると言えましょう。
 しかし、聖書が教える「憐れみ」は辞典的意味をはるかに超える意味をもっています。「憐れみ」はギリシャ語で「エレオス」と言いますが、この言葉は旧約聖書の「ラハミム」、「ヘッセード」という二つの言葉の意味を含んでいる言葉です。「ラハミム」とは、赤ちゃんを宿している「母胎」を意味する言葉から出たもので、自分の胎から生まれた子どもへの母親の切なる母性愛を表現する言葉です。すなわち、相手の身となってその人を深く理解し、共に悲しむということになります。また「ヘッセード」とは、「ラハミム」からもう一歩進んで、相手への感情の共感と共に、相手の苦しい状況を解決するために実際的行動と具体的な助けを与えることまでも含む言葉です。そしてここには「誠実、真実、忠実」という姿勢が伴います。
 憐れみはその対象を区別しません。今、目の前に倒れて死にそうな人がいるのに、その人の身分や職業、その人の出身地などが憐れみの基準になってはいけないのです。今求められるのは、倒れて苦しんでいる人を速く手助けし、病院に連れていくことです。憐れみというのは単純な感情ではなく、行動をも含むことだからです。ここには、地位の高い低い、強い弱い、人種や民族の違いなどは関係ないのです。すべての人が憐れみを受けるべき存在であり、私とあなたもその憐れみの対象の一人となるのです。このことを「他者と自分を同一視する愛」というのです。相手と自分を同一視する愛は、相手の立場に立ち、その人の思いと心の中に入っていく愛です。神は、あなたと私、ご自身を同一視するために、「神の身分から、ご自分を無にして、人間の姿、人間と同じ者になられ、十字架で死んでくださった」(フィリピ2:6-8)のです。これこそ、究極の憐れみなのです。
 それでは、憐れみの恵みを受けた者として、あなたはどうあるべきでしょうか。イエス様はその答えとして、「あなたの受けた憐れみの恵みを、周りの憐れみを必要とする者へと流しなさい!」と言われます。そのことこそ、イエス様とあなた、また、あなたと隣人の間における「同一視」の恵みであり、祝福を受ける通路となるのです。