2014.12.07

『 光を証しする人 』ヨハネによる福音書1:6〜8)     
 アドヴェントに入り、4つの福音書のイエス様の降誕物語を黙想する中において、必ずといっていいほどイエス様と一緒に登場する人がいます。その人がバプテスマのヨハネです。もちろんそこには、確かな目的があったことを聖書ははっきりと教えてくれます。バプテスマのヨハネについての聖書の箇所を見ますと、「旧約と新約をつないでくれる最後の預言者」(マラキ4:5,6)とされ、「女の生んだ人のうち最も偉大な人」(マタイ11:11)、「荒野で叫ぶ者の声、主の道を備える者」(ルカ3:4〜6)、それから本日の箇所では、「光を証しするために遣わされた人」(ヨハネ1:6〜8)として紹介されています。
 これらと関連してバプテスマのヨハネを紹介する時よく用いられるイメージが二つあります。まず、「指」です。歴史に残る有名な美術作品の中に登場するバプテスマのヨハネの姿の多くが、人差し指を長く強調して、何かを指している恰好で描かれていることです。すなわち、福音書に登場するバプテスマのヨハネについてのすべてがメシアであるイエス様を指差すという一つのところに集中していることが分かります。もう一つのイメージは、「声」です。「荒れ野で叫ぶ者の声」(イザヤ40:3、ヨハネ1:23)。「声」とは言葉を伝えるための音声であります。そして「声」は口から出たとたんに消えてしまう特徴をもっています。その通り、バプテスマのヨハネは救い主メシアであるイエス様について、ひたすら指差し、声を高々と上げました。そして、イエス様の登場と共に歴史の舞台から消えていきました。まさに、本日の御言葉においてもバプテスマのヨハネが立っている地点がそこです。
“神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。”(1:6〜8)
 「彼は光ではなく」と言う言葉が心深く響きます。確かに彼は光ではありませんでした。しかし、人々の目に映るヨハネは光のように輝くメシアのようであり、偉大な神の人のようでありました。だから多くの人が彼を高く持ち上げようとした時もあったわけです。しかし、ヨハネは一時さえ、「光を証しするために遣わされた」という神からの召命、生きる目的から外れたことはありませんでした。おバカさんのように。
 あなただったら、これで満足できますか。光になりたがる欲を抱いていた日々ではありませんか。真の光なる救い主の誕生を待ち望むアドヴェントの時を過ごすあなたにバプテスマのヨハネの喜びと祝福で溢れますように・・・。