2014.12.14

『 イエス様を迎える準備 』(マタイによる福音書3:1-12) 
 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川のほとりの荒野に住んでいました。世の中から離れて自給自足の生活をしながら、人々に「悔い改めて、メシアを迎える備えをするように」と大声で呼びかけました。
 ヨハネはその生まれ方も特別でした。ルカによる福音書には、年老いた祭司ザカリアの、子供を産んだことのない妻エリザベトの胎内にヨハネが宿ったことが述べられています。マリアも天使ガブリエルに、のちに我々がイエス様と知ることになる子供が生まれることを知らされると、そのよい知らせを共有するために親戚のエリザベトを訪ねて行きました。マリアがやってくることを知って、エリザベトの胎内のヨハネは躍りました。これは、イエス様とヨハネに特別な結びつきがあったことを示すしるしです。
 今日読んだマタイの福音書ではヨハネの姿が示されましたが、ここの前の1,2章においてユダヤの父祖の歴史の中にお生まれになったイエス様と、この3章のはじめで述べられたヨハネとが結びつく箇所へと、このあと続いていくのです。
 バプテスマのヨハネエッセネ派という信仰の一派と似ていると指摘する学者もいます。エッセネ派も世の中を離れて生活し、主がすぐに来られることを思って悔い改めを重んじ、水による清めを行っていました。しかし、ヨハネは一生に一度のバプテスマを大切にし、ユダヤ人、異邦人に関わらずより多くの人々に授けるために川のほとりに宿営していたのです。ヨルダン川のほとりで起きている動きを偵察に来たファリサイ派サドカイ派の人々には、ヨハネは厳しく彼らの信仰の至らなさを指摘し、選民意識を捨て自らの罪を悔い改めるようにと言い放ちます。
 ヨハネは、イザヤの預言した「主の来られる道を整える」というみことばを安易にとらえず、神からの自分自身の召命としてどう生きるかに自分の全てを集中しました。ヨハネの厳しい言葉は今の我々にも厳しく響きます。私たちも、律法の権威者たちのように、自分の奉仕や信仰歴を誇るあまり神の前にへりくだって悔い改めるのを忘れていないでしょうか。クリスマスキャロルを歌ったり、イエス様のお生まれになる話を語るだけでは、イエス様を迎える準備にはなりません。主が私たちのところにはるばる来られるのを阻む自分の中の障害物をきれいに取り除くことです。アメリカではアドベントの各週が、希望、平和、喜び、愛を表すとしていますが、それらは悔い改めと心の備えをもってこそ真に味わえるものです。
                        カーソン・フーシー宣教師