2014.12.28

『 いつも感謝していなさい 』(コロサイの信徒への手紙3:12〜17)
「神への礼拝は、あなたが与えるものよりも受け取るものの方が、はるかに大きいと気づくときにはじまる。
 神への礼拝は、もし主が手を差し伸べて下さらなかったら、あなたは今でも傷つき、足を引きずって、苦しみ、打ちひしがれていただろうときづくことだ。
 神への礼拝は、荒野をさすらう者が、オアシスが蜃気楼でないと知ったとき、日に焼けてかさかさになった顔に浮かべた驚きの表情だ。
 神への礼拝は、黙らせようとしても決して黙らない感謝の声だ。ぼくたちは、神への礼拝〜知識を引き出そうとして来た。だが、僕たちにはそれはできない。真の愛を売ったり、真の平和を取り決めることができないのと同じだ。
 神への礼拝は、救われた者が救い主に対してささげる自発的な感謝の行為だ。
 癒された者が癒し主にささげる感謝の行為であり、贖われた者が贖い主にささげる感謝の行為なのである。」
                        ・・・・「マックス・ルケード師」

 今年最後の礼拝です。この一年間、神の家族は主に喜ばれる礼拝をささげたでしょうか。主の喜ばれる礼拝は、主に選ばれ、赦され、愛された者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を生きる人たちの礼拝です。しかし、これらを人間の力でやろうとすると限界にぶつかってしまうのです。それでは、どうすればいいのでしょうか。答えは一つ、「主イエスによって」です。すべての奉仕、すべての関係、すべての仕事、すべての行いをイエス・キリストという恵みの服を着て、キリストの言葉に根を下ろして生きることです。
 パウロは本日の御言葉の中で「いつも感謝していなさい」と勧めます。ところが、この世の誰がいつも感謝していられるでしょうか。しかし、パウロはテサロニケの信徒たちへの言葉の中ですでに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という勧めをしていたことを知っています。すなわち、パウロの「いつも感謝すること」への秘訣こそ、「主によって」でした。人の力や頑張りによって得られない、「主によって」新しくされた人のみできる生き方なのです。過ぎ去った一年を振り返り、また新しい一年を迎えながら心がける言葉、「主によって、わたしはいつどんなことにも感謝することができます。」ハレルヤ!