『 わたしたちの避けどころ 』(詩編46:1〜12)
 本日の詩編46編は宗教改革者ルターの詩編とも知られている詩です。ルターはこの詩から神の約束への確信と勇気をいただいて宗教改革という大いなる御業を成し遂げることができました。
 私たちは、度々偉大な信仰の人と言われる人には苦難などないだろうと考えてしまいがちです。しかし、そうではありません。ルターをはじめほとんどの信仰の先人たちは現代の私たちとは比べられないほどの苦難を味わっていました。しかし、彼らは苦難の最中、「必ず、そこにいまして助けてくださる」神を見出し、神を避けどころとしたのです。そこに信仰の偉大さがあったのです。わたしたちが神様を助けてくださる方として信じ、わたしたちの人生の苦しい死の谷を通ることができるのは、神様の力を信じるだけでなく、神のわたしたちへの愛を信じることです。これは、神とわたしたちとの生きている関係の中で告白できるものであるのです。
 2節で「苦難の時」という言葉は、人としてはどうしても解決することのできない大きな苦難の時という意味です。わたしたちの予想をはるかに超える突然の苦しみ、人の力ではどうしても乗り越えられない苦難が襲ってきた時、まさに「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移り、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」(3,4節)ような人の限界を超えた苦難の時であっても、詩人はそこで、「恐れない!」と歌っているのです。その理由こそ、「まことの避けどころ、砦となってくれる神が共におられる」ゆえに“恐れのない人生”を生きることができたのです。
 この詩編には神の子どもたちへの二つの招きが記されています。一つ目が「仰ぎ見よう」(9節)、二つ目が「力を捨てよ、知れ」(11節)です。この二つは密接なつながりを持っています。まず、「仰ぎ見る」。ここで「見る」という意味は、多くの人々には隠されていることを神の子どもたちは霊の目で見ることが出来ることを意味します。すなわち、この地を圧倒される神の隠れている働きを見ることができるというのです。次に11節の「力を捨てよ」、これは「静まる、捨てる、降伏する、やめる」といった意味をもっています。いつも忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない現代日本社会においては、「静まり、捨て、降伏する、やめる」ことはなかなか難しい選択でしょう。ですから、「力を捨てる」とは、決して消極的ではなく、神との親密な関係にある信仰者のより積極的な信仰姿勢であることを意味しているのです。