2015.5.24ペンテコステ

聖霊は生きていますか② 』使徒言行録16:6〜10、エフェソの信徒への手紙5:18、19)
 本日はペンテコステ礼拝です。聖霊の贈られた父なる神の恵みと祝福が神の家族の上に豊かに注がれますように祈ります。
 神の家族の皆さんもご存知のように、使徒パウロはいつも神の御心を熱心に探し求め、福音宣教に人生のすべてをかけていた人でした。ダマスコの道端でお会いしたイエス様による劇的な回心の日から、救いの福音を一人でも多くの人に伝えるために、休む間もなく旅から旅へ、山を越え、川を渡り、福音のためなら何でもするという覚悟で進んできた伝道者としてのパウロの人生でした。
 しかし、これほどまで徹底的に福音を生きようとしていたパウロの思いが、突然挫かれるような出来事に遭遇します。ある日、パウロは今までと同じく福音宣教のために計画し、道を進もうとしていたのに、どうしたことなのか、計画したことがことごとく閉ざされ妨げられてしまう状況に追い込まれることになります。当時のことを聖書記者は「聖霊に禁じられ、主の霊が許さなかった。」と記します。今まで常に「主のため、神の国のために」という判断基準から逸れたことはなかったパウロでした。それなのに、その道が阻まれるという状況・・・。けれどもパウロは自分の計画が思う通りに進まないことで失望し挫けることはしません。これらすべてが「聖霊が」、また、「イエスの霊が」介入されての出来事である。すべては御霊が主導権をもって人生を導かれここまで来れたという信仰の上に立つパウロでした。そこで、パウロは思いを替え、聖霊の御心がどこにあるかを求め始め新たな道へと進むことになったのです。
神の家族の日々、なかなか思い通りに行かず、苦しみ戸惑う時があります。その時にあなたは「なぜ神は私をこんな目に遭わせるのか?」とつぶやいてしまいがちです。しかし、聖霊がすべてを御存じで、いつも共におられ最善へと導こうとされるという信仰の上に立つ事です。願った通り行かず、行き詰ってしまう状況が続くということは聖霊の導きがないことではなく、それこそ聖霊が働かれ、なお導いておられるという証拠であるという信仰に生きることです。
 パウロはエフェソの信徒に「聖霊に満たされなさい」と勧めます。聖霊に満たされるとは、すべてにおいて生きておられる聖霊の臨在を感じながら、聖霊に支配されて生きることです。自分の思いも、心も、時間も聖霊のくださる知恵と力で歩み続ける人はいかに幸いでしょうか。