2015.11.8

『 神の宣教の方法 』(Ⅰコリント1:26〜31)
 パウロはコリント教会の人たちが最初に救いにあずかり、神の家族の群れに召された時の
ことを思い起こすべく勧めます。
“兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。”(26節)
 信仰生活において「神に召された時のことを思い起こす」ことはとても大切です。イエス・キリストに出会う前の人は誰もが、罪人でありましたし、人生に失敗し無力さを痛感していて、将来に希望がもてない人生であったはずです。しかし、そのような人がイエス様の十字架に出会うことで、真の愛と赦しをいただき、将来への希望を見出すように変えられるのです。誰一人、このような恵みを経験しなければキリスト者にはなれないはずです。
 しかし、コリントの信徒たちは神に召された時のことを忘れていました。そこでパウロは彼らが忘れていた神に召されたときの姿を挙げています。ここで「人間的に見て」とは、「世俗的な基準で見る」という意味であり、①「知恵のある者」②「能力のある者」③「家柄のよい者」という、当時のギリシャ世界における「知恵、能力、家柄」と言った人を判断する3つの基準からは、ほど遠い状況にあったコリント教会の信徒たちでした。それなのに今のコリント教会は過去の自分たちの弱さを忘れ、高ぶり、世俗的な基準で人を判断しようとしていたのです。
 そこで、パウロは宣言します。 「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(27節)…“まことにあなた方こそ無学で、無力、身分の卑しい者だった。そんなあなた方を神は選ばれ、神の恵みに生きる者と変えてくださったのだ。それなのにあなた方はそのことを忘れているではないか。思い起こしなさい!初めの頃の愛を回復しなさい!召された者として正しく生きなさい!”と。
 実はパウロ自身、世俗的基準から見ると、最高のエリートでありました。しかし、そんな彼が十字架のイエス・キリストに出会ってからは、この世の知恵やこの世の人々が誇りとしていたすべてのものを「塵あくた」のように見なします。その理由こそ、「イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさと、キリストを得る」(フィリピ3:8)ためでした。この決断の日からパウロは真の伝道者としての歩みを始めることができたのです。
 「誇る者は主を誇れ」(31節)パウロは、エレミヤ 9章の言葉を引用することで、コリント教会の争いが世俗的な誇りから出たものであることを再度確認しています。わたしたちが神に召されたのは恵みでしか説明するこ
とができません。その恵みを知る人は自分を誇ることもできなければ、世俗的基準に捕えることもできません。ただ召してくださった神、十字架の主イエス・キリストだけを誇りとします。その誇りが現れることこそ、「宣教」なのです。ハレルヤ!