2016.2.7

『神の時を選ぶ人は幸いです④』(ルツ記1:19〜22)
“ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。”(1:20)

 ナオミがルツと一緒に故郷のベツレヘムに帰ってきました。故郷に着いてから、彼女を知っている人たちの前でナオミは“これから自分の名前をナオミ「快い、喜び」ではなく、マラ「苦い」という名前で呼んでほしい!”と頼んでいる姿があります。この箇所を見ると、まるで神がナオミの人生を失敗へと導いたかのような方として紹介されているように思われます。しかしこの告白には彼女が今まで味わっている失敗こそ、神の責任ではなく、自分自身が神の祝福の御旨から離れてしまったことによる結果であったことを正直に認める後悔の意味が強いのです。すなわち、神の計画と御心から離れて生きるのであれば、その人の人生は決して幸いを得ることはできないこと、人間の努力や選択だけでは人生は駄目になっていくことへの告白だったわけです。
 そうです。わたしたちの神は決していたずらに神の子どもたちを苦しめたり、神の目的のためにわたしたちの人生を操縦される方ではないことを知っておくことです。むしろ神は神の子どもたちに祝福を与えようとされる神、万事を益としてくださろうとするお方、わたしたちを愛する父であることを忘れないことです。
 「全能者」とはヘブライ語で“シャダイ”と言います。この言葉は神の名前の一つであることを聖書は教えます。すなわち「エル・シャダイ=全知全能の神」が、ナオミが体験した神だったのです。エル・シャダイとは“実現不可能なことを成し遂げられ、人の未来を定め、どのような環境においても祝福をもたらしてくださる全能なる神”、ナオミはそのようなエルシャダイの全能なる神を体験したわけです。彼女は自分の間違った選択によってすべてを失いましたが、その代わりに人生における本当の主人である全能者なる神を得ることができたのです。
 そして、いよいよ「全能者なる神」が具体的な恵みのご計画をもってナオミとルツに関わろうとする時がやって参ります。「大麦の刈り入れの始まりのころであった」(1:22節)・・・ルツとボアズの出会い、二人の夢にも思ったことのない「運命的な出会い」の物語が始まるのです。ここにこそ偶然を装う「エル・シャダイの神」によって成し遂げられる全人類への大いなる救いの愛の物語が始まるのです。神の恵みを求めて御翼の陰に入ってくる子どもたちを喜んで受け入れ、彼らを通して新しい御業を始められる全能者なる神をほめたたえましょう。
“常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。”(箴言3:6)