2016.2.14

『ウォッシュ・ミー〜私を洗って下さい〜』(詩編51:3〜19)
 受難節(レント)は私たちの「人性」にとって神のきよさがどれほど必要かを深く考える機会です。「人性」においては、他人の汚点はすぐに目につくのに、詩編51 編のように自分の罪を主の前に告白し赦しを乞い、自分を作り変えていただくようにと願い求めることはなかなかできないのではないでしょうか。詩編51編の作者は神や敵を恨まず、罪のまことの悔い改め、美しくもあり、断腸の悲しみでもあるその思いを示しています。ダビデがバテシバとの姦淫の果てにその夫ウリヤを謀殺した罪の悔い改めを歌ったものだと言われていますが、誰のどんな罪の歌だとしても、作者の心底からの告白が本のページから飛び出してくる想いがします。
 詩編51編からはまた詩編の作者の神、わたしたちの神と同一の方の品性も伺い知れます。彼にとってとりわけ大事な二つの神性が、12節に示されています:許してくださる方、人を変えてくださる方です。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」神はその人の罪に汚れた心を洗い清めてくださり、その人を変えてくださり、進む道を導く新しい霊を授けてくださいます。詩編の作者の知っていることはキリスト者も知っています。キリスト者はイエス様の生と死と復活を通してその神性を知るからです。また、主を信じると公に言い表すことで、清められ、主に仕える新しいいのちをあたえられるからです。
 私はいつも良い人、正しい人でいることに大きな重荷を感じ、自分の罪を他の人に、そして神に告白することを本当に難しく思ってきました。しかしある本を読んだ時私の目は大きく開かれ、自分の過ちを隠そうとするのが神の家族に対する不誠実、主に対しての不信仰であるという思いを新たにしました。その本の著者の女性は教会生活を一度離れてから、新しく変えられてまた立ち返りました。彼女は、「キリストの教えは、自分に罪があると認め、それに対処する行動を起こしなさいというものだ」「良い教会は葛藤している人々、不完全な人々がみんなやってきて、他では言えない自分の真実を互いに語り合うための安全な場所になる」と語っています。過ちを犯し失意の中で主の前に行くことも、神への信仰の表明です。教会の兄弟姉妹の前で自分の信仰生活を偽ることなく、神に心からの告白を捧げるのであれば、神の家族ともより親しく交わり、主にもより近くまで進んで行くことができるのです。  
                   
                                カーソン・フーシー
※英語版と新共同訳版では詩編51編の節の番号が2節ずれています。