2016.9.11

『 信仰生活は感動です 』 (ネヘミヤ記8:1〜12)
 本日与えられたネヘミヤ記8章は、城壁再建を終え、イスラエルの民が主なる神の御前に集まり、礼拝を献げる姿が記されるところです。バビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻ってきた民たちが様々な試練に遭いながらも皆が一つとなってエルサレム城壁再建を成し遂げたのは、「イスラエル共同体は礼拝する民」というアイデンティティーのゆえでした。礼拝の民として選ばれ、礼拝による神との交わりに生きるために選ばれたイスラエル共同体が、失われていた礼拝の感動と恵みの回復こそ最も大切である、という共通認識から成し得た業であったわけです。そのためネヘミヤ記8章の御言葉は現代のキリスト教会と信徒たちにチャレンジするのです。“あなた方の礼拝は生きていますか。あなた方は聖書の御言葉に飢え渇いていますか。あなた方の信仰生活は感動に溢れていますか。”と。
 イスラエルの民にとってエルサレムの神殿を再建することや、城壁を再建するということは尊いことでした。しかしネヘミヤが私たちに伝えようとしていることは、目に見える建物としての神殿や城壁の再建よりもっと重要なことこそ、神の民による礼拝共同体を再建することだというメッセージです。イスラエル共同体はそのことを良く知っていました。イスラエル共同体は祭司であり書記官であったエズラに神の御言葉を読み上げてほしいと願います。その理由こそ礼拝共同体としての神の民の心の神殿の再建がなければ、目に見える神殿と城壁の再建の意味はないという確信があったからでしょう。その後、エズラによる聖書朗読が夜明けから正午まで長々と続きます。その間、イスラエル共同体は立ち上がって、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したと当時の様子が描かれています。それだけではありません。民は皆、御言葉を聞いて嘆き、泣いたとあります。これこそ礼拝と御言葉がもたらした恵みであって、礼拝と御言葉が持つ力でした。
 神の御言葉は生きていて人に感動を与えます。神は言によって天と地、すべての被造物を創造され、また、見える言としてイエス・キリストをこの世に贈られ、聖霊のお働きによって御言葉を悟る知恵と信仰生活における命をもたらしてくださったのです。このように命の御言葉が語られ、御言葉を聞く人に感動を与える場が礼拝なのです。私たちは礼拝を通して命の御言葉に触れ、御言葉によって神の御心を知り、再び御言葉を携えて世界へと出かけるようにされるのです。
 私たちの礼拝はいかがでしょうか。私たちの御言葉に対する反応はいかがでしょうか。今こそ私たちの信仰生活が恵みに対する感動で再建されるべき時、目に見える形としての礼拝でなく、生きている御言葉に触れ、全人格をもって救われた民としての感動に満ちた礼拝を献げるべき時なのです。ハレルヤ!