2016.12.4

『来るべき方は、あなたでしょうか』 (マタイによる福音書11:2〜6)
 アドベントは、主が来られるのを待ち望む季節です。私たちの生活に変化をもたらされる救い主を待ち望む備えをする季節です。ですから、アドベントは救い主を迎えるための悔い改めの時であり、自分を聖く整える時であるのです。本日の聖書箇所には、メシアを待ち望んでいたバプテスマのヨハネが登場します。
 バプテスマのヨハネは、彼の後に来られるメシアについての特別な期待を持っていました。ヨハネは、当時のイスラエル社会の状況を目の当たりにしながら、メシアによる裁きの日のメッセージを宣べ伝えてきました。メシアが来れば、この罪悪に満ちている世界は打ち砕かれ、全く新たに変えられるという希望に満ちていました。
 ところが、彼が待ち望みつつ確信していたメシア、イエスが彼の目の前に現れたけれども、イエスのメシアとしての姿は、彼が期待していた姿とは程遠いものでした。圧倒的な力に溢れ、すべてを変革していくようなメシアはイエスの姿から見出すことはできなかったのです。そして今、バプテスマのヨハネは悪しきヘロデ王の手に捕えられ、牢屋に閉じ込められている状況。彼が宣べ伝えてきたメシアによる悪しき世界への裁きどころか、かえってその悪しき力に捕らわれている。もしかしてヨハネは、イエスがメシアとして何かを起こしてくれるだろうと期待し待っていたのかもしれません。 しかし、待っても待っても何も起こらない。世界はますます暗闇に覆われている。・・・今日、私たちもヨハネのような経験をしていると言えましょう。神が自分の置かれている状況を変えてほしいと思っているのに、何もしてくれないような状況、私たちの期待を裏切るようなことが続いている現実。
 バプテスマのヨハネは、牢から深い絶望を味わいながら、弟子たちをイエスのもとに送ることになります。そして次のように尋ねます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3節)
 ヨハネの弟子たちの尋ねに対してイエス様がヨハネに伝えようとされたことは、「神の国」でした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(4〜6節)
 これは、バプテスマのヨハネが期待していた革命的な事柄とは全く異なる性格のものです。そこには、ヨハネが伝えていた裁きもなく、報復も、圧倒的変革もありません。むしろそこには、癒しと命の福音が述べられているだけです。
 愛する神の家族の皆さん、アドベントは、私たちが抱えている問題を解決してくださるために来られるメシアを待ち望む季節ではありません。むしろ小さな者として、貧しく、謙遜で、弱い幼子としてお生まれになるイエス・キリストにつまずくことなく、小さな飼い葉桶を準備する時、神の国のメッセージを受け入れる時なのです。ハレルヤ!