2017.1.1

『 マラからエリムへの旅 』出エジプト15:22〜27)
 新年明けましておめでとうございます!!!
 2016年の一年の歩みを恵みのうちに終えることができ、また新しい一年を始める恵みを心から賛美いたします。今年の愛する神の家族お一人お一人の歩みが守られ、時に適った神の導きと祝福で満たされますように・・・。
 今日私たちは荒野を旅するイスラエルが体験した「マラとエリムの恵み」について考えてみたいと思います。
 エジプトを出たイスラエルの民にとって、荒野の経験は初めてでした。海が真っ二つに分かれ、海の道を歩いてエジプトを脱出するという驚くべき奇跡を体験したイスラエルの民は、その後三日間シュルの荒野を歩くことになります。彼らの歩みはこれからのことへの期待と楽しみで満ちていたことでしょう。しかし、彼らの期待と楽しみはたったの三日間という短い時間で崩れてしまいます。その崩れの原因となったのが「水」の問題でした。水とは人間の生存の問題です。イスラエルの民は水を探して三日間の旅を続け、やっと「マラ」という場所に到着しますし、聖書はマラの水は苦くて飲むことができなかったと記します。マラの水を前にした民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言い恨み始めます。今までの神の大いなる御業は忘れてしまい、目の前にある試練に心が奪われて不平とつぶやきを言ってしまう、不信仰の民の姿が描かれています。私たちが歩む今年の荒野の旅において、マラのような苦しみと試練があります。苦い人生の経験があり、苦い事件があり、水があるのに飲めないように、仕事がうまくいっているように見えるのに、うまくいかない時もあります。
 その時、神の人モーセイスラエルの民の方ではなく、神に向かって叫び祈ります。神はモーセの祈りに応えられ、一本の木を示され、その木を水に投げ込むと、水は甘く変えられる。マラの苦い水を甘い水に変える唯一の方法は、神が示された、ある木を投げることであります。その木こそ、イエス・キリストの十字架でした。
 「わたしはあなたを癒す主である」(15:26)・・・ヘブライ語で「ヤハウェ・ラファ」、旧約聖書の中で神を呼ぶ時の名前の一つです。神は私たちの置かれている状況を変える力があり、私たちの人生の旅路における苦い水を甘い水に変えることのできるお方です。大切なのは、私たちの従順、イエス・キリストの十字架を私たちの苦い人生の水の中に投げ続けることです。イエス・キリストの十字架には私たちの罪と病、痛みと汚れを癒す力があることを心に刻みましょう。
 2017年の旅路において、マラの苦い水を目の当たりにする時もあるでしょう。その時、マラの苦い水の前で座り込んで不平を言ったり、恨んだりしないで、モーセのように神に向かって叫び祈ることです。そこで、神は命の木、すべてを新しくされる十字架を示してくださることでしょう。苦い水が十字架に触れる時、私たちの人生は甘い命の水に変わるはずです。そして、神は今年の終わりには神の祝福の約束であるエリムに到着し、渇きが満たされ、喜びと感動に溢れる天国の礼拝をささげることになるでしょう。ハレルヤ!