2017.1.15

『 失われた者を捜し求める旅 』 (マタイによる福音書18:10〜14)
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(18:10)
 ここで「小さな者」とは、共同体における最も小さな者、社会的弱者のことを表す言葉です。そして、イエス様の目がその小さな者に向けられているということを教えているのです。そうです。神様の造られた人の中に、価値のない人、人々から軽んじられ、無視されても良い人は一人もいません。皆が神の似姿で造られた尊い存在であり、皆が神の独り子が十字架の上で命を捨ててまで救おうとされた、愛してやまない存在なのです。とりわけ小さな者が神に愛されるべき者であるということを強調しているのです。
 しかし、今の世界は、自己中心、ナショナリズム、弱肉強食の世界。そんな中、弱い者は無視され、差別され、捨てられ、殺されてしまう。そして小さな者の悲しい涙は乾くことがない現実であると言えましょう。
 そこでイエス様は、小さな者を軽んじてはならないことを「一匹の迷い出た羊を捜し求める羊飼い」のたとえ話をもって教えておられます。“ある人が持っていた100匹の羊のうちの一匹の羊が迷い出てしまった。そこで、羊飼いは九十九匹を山に残して、一匹の羊を捜しに出ていくというのです。”・・・このたとえは常識から言えば、なかなか理解できない内容です。もし羊飼いが一匹を捜すために出ている間、残っている九十九匹の羊たちが散らばってしまったら、それは大変なことになるからです。しかし、このたとえが語ろうとすることは、「一匹の迷い出た羊」に焦点を合わせているということです。すなわち、この話を聞いていた教会共同体が、「一匹の迷い出た羊」のような小さな者のために、どのような態度を取るべきなのかということを強調しようとされたのです。
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14)
 そうです。天の父の御心こそ、小さな者一人が滅びないこと、一人の迷い出た羊が、神の愛の懐に立ち帰ってくることです。クリスチャンは神の御心を同じく抱くことを心がけなければなりません。神の御心の痛みを、自分自身の痛みのように感じる時、私たちはやがて神の人と呼ばれるようになるでしょう。神は、迷い出た羊を悲しみと痛みに満ちて見ておられるのに、神を信じる私たちが何も感じないとするのであれば、私たちは神との正しい関係を結んでいるとは言えないでしょう。
 失われた一人を捜し求めるために、天の栄光を捨てこの地上に来られ、やがては十字架の上でご自分の命を捨てるまでの愛の旅を続けられた神の独り子イエス様のことを覚えます。願わくは、今年2017年、神の家族お一人お一人が、一匹の迷い出た羊を捜し求める天の父の「憐れみの」御心を抱きつつ、イエス様の手と足となって失われた一人の魂を捜し求める旅に出かけていき、天の父と喜びを共にできる一年でありますように・・・。ハレルヤ!