2017.5.7

『 礼拝者の基本に戻る 』 (ミカ書6:6〜8)
 “人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(ミカ6:8)”
 創世記からヨハネの黙示録まで、繰り返し強調されている主題の一つとして、生きておられる神は、神を正しく礼拝する民を新しく造っていかれるということでした。その延長線上にミカ書もしっかりとその役割を果たしています。
 神は、礼拝する一人一人をいつもご覧になっておられる、そして、一人一人がどのような信仰をもって日々を過ごし、礼拝の場に来ているのかをすべてご存じなのです。私たちは、働き人である前に、まず礼拝者として自分自身を献げなければならない。「どれだけ多くの働きをしていて、その働きにどれだけ多くの時間を費やしているか」よりも重要なことは、「どのような心で神の前に立っているか、神の御心をどれだけ知って礼拝しているか」ということです。礼拝の本質は、イエス・キリストを自分の主と告白し、いつどこであろうと、神が求めておられる通りに、自分自身を献げ、生活におけるすべてを献げることです。そのような礼拝者としての生活の中で、私たちは神に会い、神を体験します。この体験はただ一方的な、神の憐れみによるものです。神は、私たちの心から献げる礼拝をいつも求めておられます。そして、その現れる姿こそ、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」ことなのです。
 神は、イスラエルの偽善的な神殿礼拝といけにえに替えるべき、三つのことを示されています。まず、「正義を行う」ことです。ここでの「正義」とは正しい生活を意味するだけでなく、キリストの光と影響力を世に示すことです。すべての人に公平に接し正義を身の周りで実現していくことです。“地の塩、世の光”となる一人の貫く正義が世を変えることができることを心に刻むべきです。二つ目は、「慈しみを愛する」ことです。慈しみ(ヘッセード)を愛することによって、神の誠実で真実なる愛を味わい知ることができ、その愛を周りの人に示していけることを意味します。すなわち神から受けたヘッセードを他人に示せない場合、神との契約に反したものとなるのです。三つ目は、「へりくだって神と共に歩む」ことです。これはキリスト者の人生において最も重要な原理であると言えましょう。神を礼拝する者がおごり高ぶることはできません。聖なる神の前の罪人としての自覚の現れこそ、へりくだりですし、そこから神との生きた関係が始まるのです。まことに、神はへりくだりの恵みを知っていたモーセダビデ、ペトロなどを選ばれ用いられたことを知っています。
 そうです。信仰とは、ただの形式的な行ないや神秘的現象への憧れではなく、私たちが両足で立って生きているすべての場所における神の正義と愛を行い、その場所を神と交わる礼拝の場所とすることです。私たちはミカの言葉を通して私たちの抱くべき正しい信仰と礼拝者としての生き方を叫ばれているのです。ハレルヤ!