2017.10.29

『 ただ、信仰によって⑤ 』〜地の塩、世の光として〜(マタイによる福音書5:13〜16)
 今年は宗教改革500周年の記念すべき年です。そのため、日本はじめ世界中の教会、教派、教団、神学校において、いろんな記念行事や特別イベントが開かれています。私たちも、宗教改革の中心的な人物の信仰と働きを学びながら現代の私たちに投げかけるメッセージを大切に噛みしめる時を過ごしてきました。とりわけ激しく変わろうとする現代の教会と世界を前にして、500年前の宗教改革の精神に立ち返ることを心がけるべきでしょう。
 しかし、そこで私たちがしっかりと心がけなければならないことがあります。それは、宗教改革者たちを偶像化したり、自分たちが属している教派や教団の伝統を絶対化してはならないということです。1517年宗教改革の旗を掲げたルターはもちろんのこと、ツヴィングリも、カルヴァンも、バプテストのスマイスも、ヘルウィスも、すべての人は、神が予定された宗教改革の御業のために尊く用いられた者、神の僕にすぎないということを知らなければなりません。
 “アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。・・・わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(Ⅰコリント3:5〜7)”・・・そうです。宗教改革者たちは完璧な人間でも、何か天使のような霊的存在で私たちとかけ離れた存在でもないのです。彼らも不完全な人間であり、間違いも失敗もしてしまう弱い人間にすぎなかったのです。大切なことは、そのような弱く限界のある人たちを主が選ばれ用いられたということです。
 本日の御言葉で、主イエスは、私たち神の子どもたちに向けて、「あなたがたは、地の塩、世の光になりなさい」と言われません。むしろ、「あなたがたは地の塩、世の光である」と、断定的に言われます。ここに、主イエスが求められるクリスチャンのアイデンティティーと使命が示されているのです。
 「塩」の存在の理由として、まず、腐敗を防ぐ力を発揮すること、それから味付けをする働き、最後に長らく変わることのない性質をもっています。しかしこれらの働きこそ、塩が地の塩として自己を犠牲にして、地(人々)のうちに溶け込むことで初めて実現するのです。まさに、塩は自己を溶け込ませ、隠れることに力を発揮するのに対して、「光」は、世界の前に自己を表し、輝かせることで存在に理由があることを心がけなければなりません。光は世(人々)から隠れることはできないし、世に見られないように生きることはできないのです。
 宗教改革者たちは、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という確信のもと、「地の塩、世の光として」自分を犠牲にしつつ、絶えずイエス・キリストを仰ぎ、救いの光を輝かせて歩み続けました。そして私たちにも求められている・・・。