2018.5.13

『 ほかの九人はどこにいるのか 』 ルカによる福音書17:11〜19)
 キリスト者の信仰生活において神の恵みを受けて神の子となる特権をいただくことほど素晴らしいことはないでしょう。しかし、その恵みを与えてくださった神に感謝を表す生活を送ることは恵みを受けることに並んで大切なことです。
 本日の聖書箇所には、エルサレムに向かわれる主イエスガリラヤとサマリアの境にある村を通られたと紹介しています。主イエスはいつも罪人や病んでいる人、弱い人を好んで訪ねられました。神が主イエスをこの地に遣わされたのは罪の中で滅びていく人類を憐れまれたためであり、罪人たちを救われるためでありました。
 主イエスは今日も10人の重い皮膚病を患っていた病人たちを癒すために訪ねていかれます。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいました。当時の重い皮膚病の病人は神に呪われた人とされ、旧約聖書の律法では社会から隔離されたところで集団生活をしていました。そして一般の人と接することができず、遠く離れて自分が重い皮膚病にかかっているものであることを叫ばなければなりませんでした。その日も、主イエスが目に見えるところを通られるけど、近づくことができない。彼らは主イエスを「先生」と呼んでいます。彼らの信仰はまだ不完全でしたが、癒しと憐れみを乞い求めています。 彼らの姿を通して私たちは、信仰が完全でないから、祈りが完璧でないから、能力がないから、神の恵みを受けられないと落胆する必要がないことを教えられます。あるがままに主の御前に行き、主の憐れみを乞い求めることです。主イエスは彼らの叫びを憐れみ応えてくださったのです。
 主イエスは彼らの叫びの答えとして、祭司のところへ行って、体を見せるようにと言われました。不思議と10人の重い皮膚病の病人たちは主イエスの言葉に従い、祭司のところへ歩き出しました。何が彼らを従順の道へと導いたのか分かりません。恐らく彼らのうちにあった小さく純粋な信仰だったのでしょう。そして彼らは驚くべき体験をします。彼らが祭司のところに行く途中で自分たちの病が癒されたではありませんか。まことに主イエスの御言葉の前に、頭では完璧に理解できずとも体で応えた彼らの小さな信仰を主イエスは祝福されたのです。
 しかし本日の聖書の御言葉は癒された後に焦点を合わせています。癒された10人のうち、たった一人のサマリア人が、喜びに満たされ大声で賛美しながら戻ってきて、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。感謝は神の恵みに気づいたときから始まります。自分の人生に関わってくださる主イエスの御手の業に気づく人が感謝できるのです。10人とも癒しの恵みを受けたが、そのサマリア人一人だけが恵みの価値に気づきました。私たちが今生かされているすべてが恵みであることに気づいてほしい。感謝を忘れることは、神の愛と恵みを忘れることであり、神から離れていることの結果であると言えましょう。主イエスは戻ってきて感謝を表すサマリア人に救いを告げられます。感謝は体の癒しを超え、魂の救いへとつないでくれます。そうです。感謝こそ、救われた人の印なのです。ハレルヤ!