2018.8.12

『涙を流される神 』 (ヨナ4:5〜11)
 あなたの人生の中において神様の御心に逆らった経験はありませんか。自分も知らずに、神の御心に逆らうことがしばしばあるのも事実です。しかし、預言者ヨナは、自分の意志で神の御心に逆らうことを選びます。最初、神から預言者として召された時には、自分の同胞たちに向けて、神の言葉を伝える預言者としての夢に燃えていたヨナだったでしょう。しかし、ヨナへの神の御心は同胞ではなく異邦人へ、しかも、最も軽蔑していた敵国のアッシリアの首都ニネベでの預言活動でした。その時、ヨナが感じたであろう神への失望と憤りは、言葉にならないほどのものだったでしょう。そこでヨナが選ぶべき選択肢は、一つしかありませんでした。神と召命から離れ、遠くへ逃れること・・・。
 しかし、愛なる神は再びヨナを訪ねられ、使命を新たにしてくださいます。ヨナがいくら嫌っていても、神はヨナを通して異邦人の救いの御業を成し遂げようとされたのです。しかし、民族主義者のヨナも変わろうとしません。ヨナはニネベの人々を救おうとする愛も、情熱も、憐れみもないまま、義務感からなる口先だけの伝道しかできませんでした。
 しかし、全く心のないヨナの伝道ではありましたが、ニネベの町に思いもよらない大きな悔い改めが広がることになります。そのことを聖書は、ニネベの王をはじめ牛や羊までも断食しながら悔い改め、神の憐れみを乞い願うリバイバルが起きたと証言します。ニネベの命懸けの悔い改めをご覧になった神は、裁きのご計画を思い直されました。
 しかしヨナは、神がニネベへの災いをやめ、憐れまれたその決定に対して腹を立て抵抗します。ヨナはイスラエルだけの神が、異邦人にも同じ恵みと救いを与えられるということを、決して受け入れることはできませんでした。ヨナのこのような態度に対して、神は、神の愛と救いが全世界、全宇宙的に及ぶべきものであること、一人も滅びることなく永遠の命を得させようとする御心を、一本のとうごまの木の出来事を通して、大切に教えてくださいます。
 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:9〜11)
 ここで「惜しむ」と訳されているヘブライ語は“フス”です。これはもともと“〜のために涙を流す”という意味をもっています。神は御手で造られたすべての生き物を愛しておられます。そして、その生き物たちの命が無残に殺され、消えてしまうことをご覧になりながら、悲しみの涙を流されます。神の御言葉を携えて、世界に遣わされた者であるキリスト者は、涙を流される神に倣い世界の殺されていく人々や生き物たちを憐れみつつ、涙を流さなければなりません。
 本日、平和礼拝を献げている神の家族の皆様。今も神様が涙を流されながら救おうとされる人々が全世界に存在していることを覚えましょう。たとえその人々が私たちの敵であって、私たちが嫌う人であっても、神はその一人一人の救いを望まれ、私たちを神の代わりに遣わそうとしておられます。私たちが備えるべきものこそ、“神の涙”です。