2018.8.19

『 礼拝から平和へ 』詩編122:1〜9)
 “わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」(詩122:8〜9)”
 「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった」(2節)・・・この最初の文章から、私たちは礼拝者が備えるべき礼拝精神を教えられます。すなわち、礼拝に参加することは、義務や形式でなく、喜びと楽しさ、感動に満ちるものであることを示しています。私たち礼拝者にとって、主の宮に上り、礼拝する喜び以上に感動的なことはないでしょう。礼拝は、義務よりは喜びをもって進むべき時、神の臨在の場所で神に出会い、神の御言葉をいただき、神より、勇気と希望と命と力、生きる知恵と揺るがない約束をいただき、それに私たちの信仰が一つとされるのが礼拝です。だからこそ、礼拝は生きているものであり、その礼拝において、最も際立つのが喜びであって、嬉しさなのです。
 そして、もう一つの重要な礼拝精神が4節に記されています。それは、「すべての部族、主の部族が主の御名に感謝をささげる」というところです。ここで「すべての部族」とは、イスラエルの全部族を指していますが、今の私たちに照らして見ると、礼拝者とその家族すべてが、礼拝に集うことを意味するのです。そうです。礼拝そのものが喜びであるのは確かですが、すべての家族の中で、自分一人だけが礼拝に集うということでは、完全な礼拝の喜びと嬉しさを味わうとは言えないでしょう。だから詩人は、自分が属している家族みんなが礼拝に集うことを期待し歌っているわけですし、それこそ、本当の幸いであると言えるのです。すべての家族が集える礼拝には、自然と「感謝」が満ちることになるでしょう。神にささげる礼拝は、私たちが喜ぶためだけではなく、私たちを創造し、命を与え、神の栄光のために生きるように導き、助けてくださる神への感謝が伴われることで、本当の礼拝と呼ぶことができるのです。
 喜びと感謝に満たされ、礼拝を献げている詩人は、エルサレムの平和、その城壁のうち、その城郭のうちの平和を祈るようにと勧めます。神を礼拝する神殿がある聖なる都は、平和の場所にならなければなりません。詩人が歌っている平和こそ、個人の平和ではなく、礼拝する神の民全体に与えられる平和であり、神の民全体が、望み、もたらすべき平和なのです。エルサレム、すなわち、神の聖なる都に住むすべての人は、「兄弟」であり「友」なのです。これは、世界の国々、民族、部族を超えての礼拝者としての「神の家族」を指しているのです。
 神の臨在の場所、神の都エルサレム愛する人は、神を愛する者であり、神の家を慕う人は、神を慕い求めるゆえに、神の祝福を受けることになります。そして、喜びと感動と感謝をもって礼拝する者たちは、真の平和を愛し、平和を祈り、平和を作り出す者としての一歩を踏み出すことになるのです。
 世界中の礼拝者が、喜びと感謝の礼拝から、イエス・キリストの十字架による真の平和を知り、エルサレム、すなわち神の神殿である、一人一人の兄弟と友の平和を祈り、平和からもたらされる幸いを生きるように・・・。ハレルヤ!