2018.9.2

『 愛に基づくマラソン 』 (ガラテヤ5:7〜15)              
 パウロをはじめ、新約聖書の記者たちはクリスチャンの人生を「走り」で表現します。その代表的な御言葉として、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:14)」、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(ヘブライ12:1)」などがあります。ここでの「走り」とは、完了形ではなく、継続進行を表す言葉です。すなわち短距離でなくマラソンの走りを表していることが分かります。パウロは本文の7節で、ガラテヤ教会の信徒たちの走りについて「あなたがたは、よく走っていました。」とほめています。彼らの福音に基づく信仰の走りを見てパウロは誇りに思っていたことでしょう。ところが、彼らの純粋な走りの中に割り込んで入ってきた人たちがいました。それがユダヤ教の律法主義者たちでした。彼らの誘いにガラテヤ教会の信徒たちは混乱に陥るようになってしまったのです。
 パウロは偽教師たちのことを神からのものではないと断言します。そして彼らとその教えのことを「パン種」であると指摘します。間違った教えは、教会を分裂させ滅びへと向かわせます。それはまるで、古くなったパン種が練り粉全体を腐敗させるかのようなことでした。聖書の中で用いられるパン種は良い意味の時もありますが、否定的、すなわち「不純物、不信仰、罪」などを象徴する時も多くあります。その悪い「パン種」の中で最も大きな影響力をもっていたのが「割礼」に象徴される律法主義だったのです。「割礼」とは、イスラエルの民の証明となるしるしであって、「割礼」のしるしを持たなければ、その人は神の民として認められませんでした。これは「信仰によって救われる」という福音に立って成長していたガラテヤ教会にとって大きなハードルとなっていました。
 キリスト者は罪と死の力と律法から解放された存在です。パウロは、神がキリストにあって与えてくださった自由は、肉の欲望を満たす機会とするものではなく、愛によって互いに仕え合うための自由であると教えます。律法主義に捕らわれている人は常に隣人を裁き、噛み、滅ぼそうとします。しかし、イエス・キリストの十字架の愛に触れ新しくされた人は愛からなる自由を生きます。愛こそすべての律法の要約であり、その中でも「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられた主イエスの偉大なる戒めを生きるのが真の自由人が成すべき自由の実なのです。
 願わくは、小泉町教会の神の家族が神より与えられた自由をもって、律法的な裁き合い、縛り合いではでなく、互いに愛し合い、励まし合う、愛に基づく信仰のマラソンを走り続け、主に喜ばれる教会を形成できるように…。