2018.10.21

『 わが魂よ、主をたたえよ 』詩編103:1〜5、20〜22)
 “忘れる!忘れない!忘れてはならない!忘れてほしい!”・・・わたしたちの歴史(共同体・個人)においてこの「忘れる」という言葉が意味することは、本当に大きいと思います。キリスト者にとって、最も大切なことと言えば、救われたことへの確信でしょう。わたしの罪と汚れ、傷と痛み、弱さがイエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、すべて赦され癒されたこと、そして、サタンの奴隷から神の子どもになるという、救いの喜びと感動!この救いの感動の記憶は忘れることもできなければ、忘れてはならないものであります。しかし、時間の流れとともにその感動が薄れ、やがては形式的信仰生活だけが残ってしまう・・・。  まさにイスラエルがそうでした。何度も神に救われ、数えきれないほど神の愛と恵みを受けていながらも、神に反抗し、神から離れ、自己中心の道を歩み、やがては神に裁かれてしまう歴史を辿ってしまったのです。その中でも、「礼拝する民」としてのアイデンティティーを失ってしまったがために、神の裁きが下ったのだということを悟ります。そこで、詩編103編の詩人は、礼拝者の模範とされるダビデの詩を用いて、イスラエルの民に礼拝することの素晴らしさを示します。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」(103:1)   
 詩人であり王であったダビデは、7回も繰り返し「主をたたえよ」と勧めます。そして、主をたたえるべき存在を、「わたしの魂、わたしの内にあるものがこぞって」賛美するようにと命じているのです。本来、「わたしの内にあるもの」とは、内臓を指す表現ですが、古代人は人の魂が、内臓の中に入っていると考えていました。ですから、「わたしの内にあるもの」とは、「心の中心、すなわちその人の全存在ももって」主をたたえることを、命じているのです。そして22節では、主をたたえるべき存在を、「主に造られたものすべて」が、しかも「主の統治されるところの、どこにあっても」主を礼拝し賛美しなければならないことを、大切に告げているのです。
 現代のキリスト者の多くは、昔のイスラエルの民のように、礼拝を形式化し、主日礼拝を奉げれば、もう自分はキリスト者としての義務を果たしたかのように生活している気がしてなりません。神の慈しみと恵みに感動するのは、もう昔の話だと平気な顔をした人々…。 しかしどうでしょうか。聖書は何と語っているでしょうか。
 ここで、「たたえよ」と訳されている言葉は、もともと「ひざまずく、ひれ伏す」という意味から出た言葉です。「ひざまずく」とは、どのような意味を持っているでしょうか。これは、“降伏する”という意味でしょう。真の王なる神に、自分の王座を明け渡して、その前にひざまずくこと、聖なる神の御前に畏れおののきつつ、両手を挙げて主を礼拝し、ほめたたえるのが、讃美の本当の意味なのです。しかし、そのような礼拝者の姿、賛美する者の姿は、神殿礼拝の時のみならず、「主の統治されるところ、どこにあっても」求められていることを忘れてはならないのです。ハレルヤ!