2011.6.19(主日賛美礼拝)

『いつどこでも賛美』(使徒言行録16:22〜34)
 真夜中の牢屋に響き渡る賛美と祈りの声。鎖につながれ牢屋に捕えられているパウロとシラス。体は鞭打ちによる激痛と疲れで何もできない状況でした。そこで二人は神を礼拝し賛美することを選びます。そして、彼らの真夜中の礼拝と賛美によって神は素晴らしい御業を起こしてくださいます。
 まず、礼拝と賛美はいつどこででもささげるべきものであるということです。わたしたちは礼拝と賛美と言えば、日曜日の礼拝か、ある程度礼拝と賛美の雰囲気が整えられている場所でささげるべきもの、と思いがちです。しかし、真の礼拝者は時と場所を選びません。周りの状況がどんなに騒がしくても、礼拝する心を整え、神をその真ん中に迎え入れることができます。
 それから、礼拝と讃美は人でなく神にささげるものです。彼らが看守や他の囚人たちの目を意識していたならば、真夜中の牢屋で賛美と祈りをささげることはできなかったことでしょう。パウロとシラスは神を見ていました。目には見えないけれども生きておられる神、幻を通してフィリピの地に導かれた神、どんな状況であっても必ず御業を成していかれる神を見ていたのです。神は捜し求める人の礼拝と賛美を通して新しいことを起こされるお方です。
 続いて、真夜中の賛美と祈りは周りの人を救いへと導く通路となります。同じく捕えられていた囚人たちはパウロとシラスの賛美の歌声と祈りを聞いていました。絶望の中に聞こえてくる信仰に基づく賛美と祈りは人々を希望へと導きます。これは迷惑ではありません。絶望の暗闇の人に必要なのは希望の光です。それさえあれば生きられます。・・・聖書はパウロとシラスの賛美と祈りの中で、突然、大地震が起きて人々を救いへと導くことを記しています。これは偶然なできことではありません。これこそ、礼拝と賛美が引き起こす恵みなのです。ハレルヤ!