2011.7.24

『 涙と共に 』(詩編126:1〜6)
詩編126編には、一人の農夫の姿が描かれています。しかし、その農夫はなぜか、涙を流しながら種を蒔いています。「種を蒔く」ということは、希望の現れであり、豊かな収穫を夢見ることです。ですから、「種を蒔く」ことと「涙」とはなかなか結び付きません。
この詩編イスラエルの歴史がその土台にあります。エルサレム神殿崩壊、バビロン捕囚といった民族的悲劇の70年間の苦しみの時を終え、自由の身となり、故郷に帰ってきた人々。恐らく彼らは希望と喜びに満ち、信仰に燃えていたことでしょう。しかし、帰ってきたイスラエルの民を待ちうけていたのは、見る影もなく廃墟となってしまった神殿、瓦礫の山となっていた町と言った過酷な現実でした。
絶望と涙の毎日を過ごしていた詩人の目に、一人の農夫の姿が入ってきました。
その農夫は涙を流していました。どういう事情をもっているか分かりません。しかし、それでも農夫は涙と共に種を蒔いています。いや、種をまかなければならなかったことでしょう。今は涙と共に種を蒔くことになっていても、必ず、豊作の喜びに変えられることを信じ、希望の種蒔きを続けているのです。
わたしたちの日々、もうあきらめてしまいたくなる時があります。いくら蒔いても蒔いても収穫がなく、失望することばかり目についてしまう。いくら考えても、希望が見いだせない状況が神の家族の上に置かれているのではないでしょうか。
しかし、それでも種蒔きをやめてはいけません。詩人は信じています。今は涙と共に種を蒔くような状況かもしれない。しかし、必ず収穫の時はくる!この涙と苦しみにまさる収穫の喜びを主は与えられる!と。
 涙と共に種を蒔きつづけている農夫の姿は、わたしとあなた、信仰者のあるべき姿なのです。ハレルヤ!