2011.10.16

『主を喜び祝うことこそ、力の源 』(ネヘミヤ記8:8〜12)                        
 今日の御言葉はわたしたちに質問します。
“主イエスを喜び祝うことこそ、あなた方の力の源なのだ!あなたは、この力の源を日々体験しているのか?”と。その力の源を失ってしまい、余所のところに行って一生懸命に捜しているのではないかと。主を喜び祝うということは、礼拝のことを意味します。つまり、“あなた方の礼拝が神への喜びの場となり、お祝いする場となっているのですか?”と、ネヘミヤはわたしたちにチャレンジしているのです。
 いつも分かち合っていることですが、わたしたちは礼拝を通して喜びを得、礼拝を通して恵みを受けるために礼拝しているのではないということです。わたしたちはいつもここで勘違いしているわけですが・・・、
 わたしたちが礼拝を神様にささげているのは、わたしたちを造られ、イエス・キリストの十字架の恵みを通してわたしたちを救ってくださった方、今も日々わたしたちを守られ助けてくださるその神の恵みのゆえに、その神の前で、喜びをもって、感謝をもって、感動をもって礼拝するのです。また、聖書はわたしたちを“神を賛美し礼拝するために造られた”と教えます。つまり、礼拝するということは条件付きの、その時その時の雰囲気や、自分の気分によってささげたり、ささげなかったりするものでなく、救われた民、造られた者であれば、誰でも神を礼拝し、賛美すべきなのです。そして、その礼拝する者のもつべき姿勢が、喜びと感謝と感動であるというのです。
 つまり、わたしたちは、礼拝から喜びと感謝と感動を受けてから賛美をし、献金をし、奉仕をするわけではないのです。この順番を忘れないでください。時には礼拝がつまらないかもしれないでしょう。時には気に入らない人がいて心が騒がしくなっているかもしれません。また、時には自分の身に起きる様々な出来事のゆえに心が重くなっているのかもしれません。しかし、それらが神様を礼拝し賛美する喜びと感謝とお祝いを妨げる理由になってはいけないのです。 
 特に、10節の主を喜び祝うことこそ、あなたたちの、「力の源」と教えますが、ここでの「力」とは“山の頂上、防波堤”という意味があります。つまり、主が与えてくださる喜びは最高の喜びとなり、さまざまなものや出来事から防ぎ守られる力だということになるのです。それはわたしたちの前に立ちはだかる試みに打ち勝つ力であり、押し寄せてくる罪と誘惑の波に打ち勝つ力であり、不確かな時にわたしたちを確かな信仰の頂上に立たせてくれる力となるのです。この喜びをわたしたちは礼拝を通して神から与えられているのです。ハレルヤ!