2011.10.30

『 傷ついた癒し人への招待 』(マタイによる福音書9:35〜10:4)
 わたしたちはみんな、「飼い主のいなかった」憐れな過去の記憶をもっています。そんなわたしたちのところに傷ついたイエス様が御手を差し伸べ、立ち上がらせてくださったために新たな人生を始めることができたのです。そして、わたしたちも周りにいる人々を“飼い主のいない羊を見るような、憐れみ深いイエス様の目と心”をもつことで、“イエスの弟子!”と呼ばれるようになり、ここからイエス様の弟子としての新しい歩みが始まるのです。
 イエス様の弟子となるのは、牧師や一定の神学教育を受けた人だけに与えられる資格ではありません。何より、“飼い主のいない羊たちを見つめるイエス様の憐れみの目と心”をもつことができれば、その人がどのような人であってもイエス様の弟子としての歩みを始めることになるのです。今日の36節で、飼い主のいない羊の弱さとその疲れた魂を深く憐れまれたイエス様は、続きの37,38節で、これらの傷ついた魂を収穫するための働き手を送ってくださるようにと祈りなさい!と頼まれました。そして、10章の1節以下で、12名の弟子たちを呼びよせておられるのです。12弟子には“汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すため”の働きをゆだねられたとあります。すなわち、“イエスの弟子になるというのは、飼い主のいない羊たちの飼い主になる”ことと言えるのです。
 イエス様の12弟子の内、誰一人として傷と痛みを背負っていない人はいませんでした。社会的、経済的、知識的、宗教的に、多くの傷を背負っていました。しかし、彼らが傷の痛みによる苦しみを知っていたからこそ、イエスの弟子になることができたのです。イエス様が人間の体をもって飼い葉おけで生まれ、ありとあらゆる苦しみを味わい、十字架を通して“傷ついた癒し人”となられたように、弟子たちにも“傷ついた癒し人”への招待をしておられるのです。あなたにも・・・。ハレルヤ!