2011.11.13

『 友のために 』(ヨハネによる福音書11:38〜44)    
 イエス様の決心は揺るぎません。11節、“わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。”どんな危険な道であっても、イエス様の歩みを妨げることはできません。既に、死の扉を開けてしまった友のために、危険を引き受けようとされるイエス様の姿は無謀のようにも見えます。しかし、危険をも引き受けようとしない愛は愛ではありません。イエス様は、“友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない”と言われました。イエス様の愛は常にここに立っておられるのです。そして、その愛の究極の姿が十字架の死を通して現れたのです。そして、この愛をもってわたしたちとも交わってくださっているのです。命をかけた愛によるイエス様との交わりはどれほど大きな恵みでしょうか。
 32節“主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに”…。マリアの言葉です。わたしたちは死と絶望の力が支配する世界各地でこのような叫びを聞きます。“主がここにいてくださったら、戦争も、災害も、事故も起きなかったでしょうに・・・”イエス様がおられないことに対する悲しい嘆きがわたしたちの生活の現場で次々と聞こえてくることを経験します。神を信じている人であれ、信じてない人であれ、理解できないことを経験すると人は知らないうちに、“神様は何をなさっているだろうか”と嘆くのです。あなたもこのような嘆きやつぶやきを吐いてはいませんか。
 お墓の前に立たれたイエス様は“石を取りのけなさい”と命じられます。そこで、マルタが慌てて答えます。“主よ、四日も経っていますから、もうにおいます。”つまり、“イエス様、現実を現実として認めてください!”という意味です。マルタが言っている“四日”とは人間の頭の常識と理解の限界を表します。その限界を超えてしまったことでマルタは絶望しているのです。サタンは“この四日の壁”を人々にばら撒きながら、現実に従うようにとささやきます。
 イエス様を信じるわたしたちもこの“四日の壁”に捕えられて生きる時がよくあります。信仰の反対語は絶望です。これ以上、何もできないし、何をやっても無駄だということをいうことこそ、不信仰なのです。皆さん、忘れないでください。人間の希望が終わったところで、神の希望が始まるのです。時には、神がわざとそのようにされるような気がします。人間的に希望を見出すことのできない状況で、イエス様は働き始められるのです。わたしたちの信仰が求められるところは、わたしたちの人間的な希望が終わったところなのです。
 愛する神の家族の皆さん、わたしたちがイエス様を信じるということは、死と絶望に向かっては“ノー”と答え、命と希望に対しては“はい、イエス”と答えることです。イエス様のうちには死と絶望はありません。つまり、イエス様を信じるわたしたちの中にも死はありません。絶望もありません。祈れない課題は一つもないのです。
 イエス様はわたしと皆さんを友と呼んでくださいます。そして、今日のラザロにしてくださったように、友であるわたしたちを死と絶望から救い出すために天の御座を捨てて罪の世界に来られ、ご自分の命を捨てて十字架の上で死んでくださいました。しかし、イエス様は死で終わることなく、わたしたちを生かすため、また、わたしたちに希望を与えるため、3日目に甦られたのです。そして、今も生きておられわたしたちの傍らで共に歩いてくださいます。
 そして、今イエス様はわたしたちに御声を語ってくださいます。“あなたの友であるラザロが墓の中で待っているよ。あなたが“石を取りのけなさい。”、また、“彼をほどいてやって、行かせなさい”・・・友のために、イエス様は今わたしたちを用いて新しいことを起こそうとしておられます。そして、わたしたちの助けを求めておられるのです。イエス・キリストの愛への招待、その招きにわたしたちは神への信頼と愛をもって応えたいですね。“友のために”新しいことを起こされるイエス様を見上げつつ進んで参りましょう。ハレルヤ!