2011.11.20

『驚くべき神の業』(詩編139:13〜18)
 詩編139編の詩人はわたしたちがどこにいるとしても、主なる神が既にそこにおられると告白します。「天に登ろうとも、陰府に身を横たえようとも、曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも・・・」神は必ずそこにいると告白します。これを「神の臨在」を生きる信仰といいます。もちろん、神様の臨在に気づくことのできない時も多々あるわたしたちであることも事実です。いくら素晴らしい信仰をもっている人であっても、時々、神がいないような、神が遠く離れてしまっているようなことを経験する時はあるはずです。しかし、今日の詩人を通して歌われている神は、わたしたちから一時も目を逸らすことなく、いつどこでもわたしたちより先を歩まれ、わたしたちのしんがりを守られるお方なのです。
 今日の詩人は二つの事実をもって驚いています。
 まず、“わたしがこのように造られたのは、神の恐ろしい力によるものだ”と告白します。70億と言われる世界人口の中で、わたしという一人の存在はさほど大切でないかもしれません。しかし、“わたし”という存在は世界にただ一人、唯一の存在として、創造者である神の作品として、しかもただの作品でなく、傑作品としての“わたし”であることを詩人は歌っているのです。ここに「わたし」を誇りに思う理由があるのです。
 次に、詩人は“あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。”と歌います。詩人はその内容について一々語ってはいませんが、生まれた時から今現在まで、様々な危機から守られ、助けられ、行くべき道を導かれ、時宜にかなった恵みで満たしてくださった主への確かな信頼を、驚きをもってほめたたえているのです。
 キリスト者は日々、「驚きながら生きる存在」ではないかと思います。この「驚き」を忘れたところで信仰はつまらなくなってしまいます。あなたは日々、どれほど神の御業の前に驚いていますか。ハレルヤ!