2011.11.27

『 実を待っておられる主に 』(ルカによる福音書13:6〜9)
 今日からアドベントに入ります。救い主のご降誕を待ち望む心をもって過ごしてまいりましょう。
 今日の聖書には「イチジクの木」が登場します。ある人がイチジクの木を植えました。しかし、実を結ぶ時期がもう3年も過ぎているのに実を結ばないイチジクの木を見て主人は怒り、ぶどう園の園丁に“だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。”と命じています。聖書はイチジクの木をわたしたち信仰者だと、主人は父なる神、園丁をイエス様だと教えます。
 実を結ばない果物の木はその存在の理由を失ったのと同じです。イエス様もヨハネ福音書で、“わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。”(15:2)と言われました。あまりにも過酷な表現のように聞こえますが、しかし、それが当然のことなのです。切るべきところを切ることや手入れをすることでその木は健康になりますし、良い実を収穫することができるからです。
 考えて見ると、実を求めておられる神の前に実の結ばないイチジクの木と何ら変わらないわたしたちの姿かもしれません。そこで、常に“自分は切り捨てられるのではないか”という恐れと不安に覆われ落胆している人もいるかもしれません。しかし、わたしたちのために、嘆願している園丁であるイエス様がおられることを聖書は教えてくれます。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
 イエス様に呼ばれた日から数十年が経ってはいても、いまだ昔の生活と終わりを告げることができず、主の喜ばれる実を結べないわたしたちです。主を信じている!と口先では告白しますが、相変わらず、“世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり”に捕えられ生きているわたしたちです。相変わらず傲慢で、自分勝手で、この世の価値観を求めて生きるわたしたちです。 敬虔な信仰者を装いながら、その実、主の求められる信仰の本当の力は否定するようになります。・・・こんな状態ですから、“切り捨てなさい!”主人から言われても仕方はありません。しかし、園丁は主人の怒りを目の当たりにしながらも、もう一年だけ待ってください!と嘆願しているのです。彼は今、切り捨てられてしまう危機に直面しているイチジクの木のために、主人の怒りを恐れず、園丁は主人の前に立っているのです。園丁はイチジクの木を生かすために、ぶどう園を任されたことと共にイチジクの木も引き受けているのです。もちろん、園丁は主人の前で、一年だけ待ってほしい!と言えたのは、実は主人の忍耐と主人の御心への信頼があったからでしょう。これこそ、わたしたちの助け主、弁護者なるイエス様の姿です。
 今まで生きた人生がどんなものであれ、一年だけ待ってほしいとわたしたちのために嘆願しているお方こそ、イエス様なのです。そして、その働きを今は聖霊様が引き受けてくださっています。ローマ8:26、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ローマの信徒への手紙8:34ではこのように言っています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
 愛する神の家族の皆さん、ぜひ覚えましょう。実を結んでなくても今わたしたちが生きているのは、すべてイエス様の執り成しによる神の恵みです。だから、今わたしたちに与えられている時間は猶予の時間なのです。ですから、感謝を込めて、各自に神が定められた人生の使命を果たすために、思いを新たにし主に喜ばれる実をおささげしたいものです。ハレルヤ!