2011.12.11

 『 安っぽい恵み、貴重な恵み 』(イザヤ55:1〜3)
 今日、わたしたちは恵みの市場に来ています。その恵みの市場にはありとあらゆる神の恵みの商品がズラリと並んでいます。それから、高々と響き渡る声があります。“ただですよ。神からの商品はすべてただで買えますよ”と。金も銀も、お金もいりません。価値を払う必要はありません。ただ、聞き従って魂に受け入れることでいいのです。・・・神が備えてくださっている救いの値段は「ただ」です。しかし、それは決して「救い」それ自体に「価値がない」という意味ではなく、神の救いが「何か交換条件をつけることのできないほど尊いもの」であるがために、神の恵みでしかいただくことのできないことを表しているのです。それが「ただ」という言葉をもって示されているのです。
 キリスト者と教会は“ただ恵みのみ”を信じて生きる存在です。しかし、ここで一つ問題が生じます。救いが「ただ」で得る恵みであるため、この恵みを「安っぽい恵み」にしてしまいがちであるということです。「独り子の十字架の贖いと恵みによって」救われ神の子どもとされたという「とてつもない恵み、恩寵」をいただいていながら、特別な感動も湧かない日々を過ごしているのではないか。つまり、皆さんがいただいた恵みが「安っぽい恵み」となっているのではないでしょうか。
 しかし、聖書が教えている恵みは、「貴重な恵み」です。この世のどんなものとも替えることのできない尊い恵みとして、瞬間瞬間、感謝と感動を与え続けてくれる恵みをいただいているのです。
 クリスマスは神が人となられた歴史的な出来事です。“神が人となられた”ということよりおどろくべき奇跡はありません。しかも、神が人のために命を与えられる目的で赤ちゃんとしてお生まれになったクリスマスの恵みははかり知ることのできないものです。この「貴重な恵み」を確かめるクリスマスの季節でありますように・・・。ハレルヤ!