2012.3.4

「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。」、「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない」(エレミヤ書14:11、15:1)
 共同体と民のための祈りと執り成しが神によって拒まれるということは、生きる希望の光が消えたことを意味します。これ以上の悲劇はありません。神はたとえ偉大な信仰の人モーセが祈っても、サムエルが執り成しても、顧みないと語られます。それほど当時のユダの罪は深く、裁きは定まっていたのです。今日の日本の国への神の御心はどこにあるでしょうか。わたしたちの執り成しはまだ、神に聞かれているでしょうか。まだ、チャンスはあるのでしょうか。
 3.11東日本大震災が起きてもう一年が経ちました。いまだに原発問題は出口が見えず、被災地の人々の悲しい涙は続いています。避難した福島の子どもたちが保育園入園を拒否されるという、あってはならないことが続いています。
 今、求められるのは“悔い改め、そして、真心からの執り成し”です。わたしたちの執り成しが無駄にならないうちに、真の希望と救いである神を求めることこそ受難節を過ごすキリスト者のもつべき姿なのです。シャローム