2012.7.22

『 キリストの弟子になる① 』(ルカによる福音書14:25〜33)
 “今日の教会の最大の悲劇と言えば、教会の数も、クリスチャンの数も多いけれどイエス・キリストの弟子は少ないし、その中でも弟子らしい弟子が少ないことだ。”と言われています。弟子という言葉は、広い意味では「イエスを救い主と信じるすべてのキリスト者」を指しますが、その意味を少し狭く定義するとすれば、「イエスを信じ、イエスに従いついていく人」と言えると思います。皆さんはイエス・キリストの弟子ですか。私たちはキリストの弟子でしょうか。
 今日の本文は、イエス•キリストの真の弟子像を教えてくれる御言葉であると思います。そこには、常に大勢の群衆に囲まれたイエス様の姿があり、大勢の群衆に向けて語られる言葉は、イエスの後をついてきていた人々を放棄させる厳しいものでした。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、また、自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」現代人はできるだけ自分についてくれる人が多ければ多いほど嬉しく思います。人を集めるためのいろんな技術や方法を使って、人たちが自分の周りに集まり、自分のフォロワーになることで喜び、そこで安心感を覚えるのです。
 しかし、今日のイエス様は、あえてついて来ようとする人たちをあきらめさせるメッセージを発信しておられます。「あなたの家族を、あなたの命を憎みなさい。十字架を背負
いなさい。自分の持ち物を一切捨てなさい」・・・この世の誰がこのような言葉に喜んで応えることができましょうか。
 私たちは今日の御言葉を通して主イエスの御心をしっかりとつかまなければなりません。主イエスの求めは「完全な献身」について、また、「所有権の問題」です。聖書が教えている事実として、私たちの持ち物はすべて神の物であることです。そして私たちはそれを委託され管理する者だという定義です。ここから弟子としての歩みが始まるのです。ハレルヤ!