2012.8.5

『キリストの弟子になる②』(ルカ福音書14:33、フィリピ3:7〜9)
 新約聖書の中で、イエス様の御言葉を徹底的に生きようとしていた弟子の一人をあげるとしたら、パウロを真っ先に挙げることになるでしょう。フィリピの信徒への手紙3章でパウロは、イエス様に出会いクリスチャンになってから、過去に握っていたもの、誇りに思っていたものをすべて「塵あくた」のように見なしていると告白しています。即ち、過去の誇りであった一切を捨てたという意味なのです。
 しかし、ここで私たちはもっと実際的な質問をしなければなりません。パウロは本当に一切のことを捨てたでしょうか。まず、パウロは当時の人々が憧れていたローマ市民権をもっていました。それでは、イエスを信じてからローマ市民権を捨てたでしょうか。いいえ、彼はローマ市民権をそのままもっていました。それから、パウロのもともとの職業であったテント職人をイエスを信じてから、テント職人をやめたでしょうか。いいえ、イエスの弟子になってからもずっとやっていたことを聖書は記しています。また、当時パウロは最も優れていた学者の「ガマリエル」という先生から学んでいました。しかし、パウロは告白します。“イエスを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、これらの一切の知識と知恵を捨てたと”と。
 それでは、本当にパウロはその知識を捨てたでしょうか。いいえ、パウロの手紙を通して分かるように、彼は素晴らしい知識、優れている哲学や論理を展開しています。それでは、一体何を捨てたというのでしょうか。そこでパウロは私たちに答えるでしょう。「私はイエス様に出会ったから、自分の知識と知恵、富、ローマ市民権などを自分のために、自分を誇るために使ったことは一度もありません。ただ、神のために、ただ福音宣教のために用いられています。私の人生の所有者は神だからです。もはや私は死んで神だけが生きている人生です。」と。ここに、キリストの弟子の完全なる献身の形が示されているのです。あなたのタレント、あなたの時間、お金、知識は何のために用いられていますか。
あなたのすべては所有者である神のために用いられるべきです。ハレルヤ!