2012.8.26

ヤハウェ・シャマー 』〜主がそこにおられる〜
                   (エゼキエル48:35 ルカ福音書24:13〜15)
“この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。”(エゼキエル48:35)
 「主がそこにおられる!」この言葉は今日のエゼキエル書の主題となっていますし、神のもう一つの名前です。ヘブライ語では「ヤハウェ・シャマー!」、「シャマー」という言葉の意味は、“そこ!”という意味です。つまり、神が私たちのいる“その場所”に共におられ、“そこで”真の神となられる!という意味なのです。
 しかし、エゼキエル書イスラエルの民が味わっていた現実は、神に見捨てられてしまったという状況でした。神は、神の都エルサレムを離れてしまい、国は滅ぼされてしまった、“神はもうそこにおられない!”という絶望に包まれていたのです。キリスト者にとって神が離れてしまったということを感じることほど、恐ろしいことはありません。エゼキエル当時のイスラエルの民の心境がまさにそうでした。
 皆さんは、神が皆さんの人生からある日突然、見えなくなり、神から見捨てられてしまったと思った時はありませんか。特に、自分の罪や弱さ、自分の間違いによってもう神は自分から離れてしまったと失望に陥った方がいるかもしれません。しかし、神は「そこにおられる」お方、一時も離れることなく、私たちを守り、助けてくださるお方です。ただ、私たちの目に見えないだけです。
 神は、背きの罪と滅びの道をひたすら走り続けていた私たち人類を救うために、神ご自身が人の姿をもって、私たちの世界に降ってこられました。聖く尊い罪とは全く関係のないお方が、罪に覆われていた私たちの人生の真ん中に来られ、私たちが味わうべき裁きと罰をすべてご自分のお体に背負い、十字架の上で血を流し死なれることで贖ってくださいました。神の独り子イエス・キリストの十字架はまさに「そこにおられる神」をはっきりと証しする証拠となっています。
 主は「そこに」おられます。あなたの罪と汚れ、涙と叫び、滅びと絶望の場所に共にいて、あなたを助け、励まし、共に歩まれるお方です。ヤハウェ・シャマーの神をほめたたえましょう。ハレルヤ!