2012.9.2

『主の豊かさにあずかる 』〜献げもの〜         
                  Ⅱコリントの信徒への手紙8:1〜9
 「私たちのものはすべて神のものである」認識の確認から弟子としての一歩を踏み出すことができます。そして、私たちのもっているすべてのものが神のものであるとするならば、それを証明する行ないが求められるのですが、それが「献金」という信仰行為であると聖書は教えます。しかし、献金行為は決して「献金」という「物」に焦点が合わせられてはいけません。むしろ、「献身」ということに大切な意味があることを忘れないことです。私たちのもっているすべてが、神のものだ!と言いながら、喜んで献げることができないならば、それは自分自身を欺くことになります。ですから、「献金」は「献身」の証しとされるのです。
 Ⅱコリントの手紙8〜9章は「献金の章」と知られている箇所です。当時、マケドニア教会は飢饉で苦しんでいたエルサレム教会を助けるために献金をしました。だからと言って、マケドニア教会が経済的に豊かな教会であったかと言えばそうではありませんでした。彼らを取り巻く状況は激しい試練と貧しさでした。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。(2節)しかし、試練と貧しさというものが、彼らが受けていたキリストの恵みの豊かさを呑み込むことはできなかったのです。
“彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた”(8:5)…マケドニア教会は「献金」をしました。しかしパウロは言います。彼らはお金だけを献げたわけではない。「彼らは自分自身を主に献げた」のだと言っているのです。即ち、献金は神の恵みへの献身の告白であり、献身そのものなのです。 
 キリストの恵みとは何でしょうか。価値のない罪人の私のために神の独り子が身代わりとなって十字架にかけられ、赦されるべきでない罪人の私がイエス様の血によって罪赦されたこと、愛されるべき価値のないもののために命を捨ててまで愛し救ってくださり、永遠の命を与えてくださった、それが恵みです。何にも代え難い恵みに豊かな者になるために、私たちは自分自身を献げる献身の証しとして献金を献げるのです。ハレルヤ!