2012.9.9

『すべてのことに富む者となる』        
              マラキ3:6〜10、Ⅱコリントの手紙9:6〜12
 前回、私たちの献身が本当の献身になるためには「自分自身を献げようとする犠牲」、「愛の純粋さを確かめるしるし」、「主の豊かさにあずかるための恵み」としての「献金」の性質を分かち合いました。そして、今日はキリスト者にとって大きな壁として立ちはだかっている十分の一の献金について考えてみたいと思います。
 預言者マラキはイスラエルの民に悔い改めを勧めながら、悔い改めのしるしとして、十分の一献金の回復を大切に語っています。
 まず、十分の一献金は神様との関係の回復をもたらす証しであると教えます。
「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。…しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。十分の一と、ささげ物をもってである。」(7,8節)
 次に、十分の一献金がもたらす祝福と神の働きの繁栄を約束します。
「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(10節)
 これほどまで神は、神の喜ばれることに献身する人々に祝福を限りなく注いであげよう!としておられます。10節はとても興味深い言葉となっています。なぜならば、聖書は繰り返し、「主、あなたの神を試みてはならない」と記しているからです。被造物として創造者なる神を試みるとは人間の傲慢の現れであり、神の怒りを買うようなことでありましたから。しかし、それにもかかわらず、聖書のうち唯一に「十分の一献金」に対しては、「神を試みなさい」と、試みへの招きをしているということです。
聖書は私たちに十分の一へのチャレンジをしています。そのチャレンジに応えようとするところに神の祝福も奇跡も味わえると言うのです。チャレンジできなければ、そこには何の奇跡も働きも起きないのです。もちろん、十分の一は私たちにとって現実的な負担ですし、厳しい命令かもしれません。しかし、私たちがお金から、物から自由にならない限り、私たちは神の用意されている本当の限りのない祝福を味わうことはできないのかもしれません。
 よく新約時代には十分の一献金が廃棄されたと主張する人がいます。もちろん、律法的強制という側面から言えばそうかもしれません。しかし、初代教会の残された記録や御言葉を通して示されていることは、私たちの信仰は律法を廃棄することに目的があるのでなく、神様が律法で命じられていた十分の一という戒めが、実は強制ではなく、救われた民の心からの自発的献身であって、喜びの表れ、また、十分の一ではなく自分の全存在ともっているものすべてが神のものという自らの献身の恵みへと変えられたのです。その意味で、十分の一は今も同じく、神の国の働きをますます栄えさせる力となり、神の奇跡を起こしていったのです。そのことを信じて私たちも喜びと期待をもって献げるべきなのです。
 ここで忘れてはならないもう一つのことがあります。私たちの献金や献げものが、形ばかり、人に見せるため、自分を誇るためであって、本当の献身の心が込められなければ、それらの献げものは何の意味もないことになることを心がけなければなりません。私たちキリスト者イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受け、新しく生まれ変わった人です。イエス様に出会う前までは自分のために生きてきたけれども、生まれ変わった日から、神の栄光のために生きる者となりました。ですから、私たちは言葉だけでなく、私たちの全存在、また、自分の持っているものを用いて神の栄光を表すことが大切です。イエス様はその十字架の血潮によって私たちを買い取ってくださいました。それゆえ、私たちの主人はイエス・キリストです。ですから私たちはキリストの福音のため、キリストの体である教会のため、仕え、献げるのです。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31〜33)
ハレルヤ!