2013.5月12日

『 主の御手の中で生きる 』  エレミヤ書18:1〜6                     
 先週娘が教会学校でもらった粘土で楽しそうに遊んでいました。それをみてふと、今日の聖書の箇所が示されました。神と私たちの関係は陶器師と粘土に例えることができます。この預言者エレミヤの時代というのは、南ユダ王国末期の滅亡寸前の時代です。北には新興バビロン、南にはこれまた大国であるエジプトに挟まれていました。この激動の時代に神はエレミヤを通して私たちに強いメッセージを語られています。神は私たちをどのように取り扱って下さるのでしょうか。どのように用いて下さるのでしょうか。また、何を期待されているのでしょうか。
①「私たちは主の器である」
 陶器師たちは粘土で一つの器を作っていました。気に入らなければ自分の手で壊し、また一からそれを作り直していたのです。神と人の関係も同じです。粘土が決して陶器師を選ぶことができないように、私たちが神を選んだのではなく神が私たちを選んで下さったのです。
②「主は私たちを造り変えて下さる」
 神は私たちがきれいな器になってから関係を持ちたいのではなく、ありのままの姿でそのままで受け入れて下さいます。神はわざわざ、手を汚してまでも私たちに触れてくださいます。汚い所にも罪にも触れて、造り変えて下さいます。そして何度失敗しても、チャンスを与えて下さいます。
③「神のろくろの上に留まる」
 陶器師が何度も何度もその粘土を作り直すことができるのは、その粘土がしっかりろくろの上に留まっているからです。いくら神様が私たちを造り変えようとしても、主の御手から離れてしまってはどうすることもできません。

 私たちは、弱い存在です。時々行き詰ったり、思い悩んだり、何もかも上手く行かなくて失望することはありませんか。そんな時がむしゃらに何かを頑張る必要はありません。頑張らなくていいのです。なぜなら私たちの頑張りで、努力で、熱心で、精進によって変わるものではないからです。私たちが何かをするのではないのです!神が私たちにしてくださったのです!それは私たちが一番わかりやすい方法で神が人となってこの地にお生まれになり、全てを、全ての罪を1人で背負い十字架の上で死んで下さったイエス・キリストがおられるということです。回りに流されて、自分を見失うことになったとしても、たとえ何度失敗しても、陶器師なる主が何度でも新しく造り変えて下さいます!全てを信頼しゆだねて歩んでいきましょう!