2013年6月16日

『澪標(みおつくし)キリスト』 マタイ14:22〜33   北 芳正牧師
「澪標(みおつくし)」とは「水脈(みお)の串(くし)」です。船の航路に安全を知らせる杭のこと。自分の危険を覚悟して「人の命を守る=身を尽くす」ことで、現在の水先案内人パイロットとかタグボートのことです。46年前に青森岸壁での幼児水死事故から始めたパトロール運動もこの名前でした。
(1)実際には何が起こったのか。
①何故弟子たちだけを船に乗せて向こう岸に渡らされたのか。五千人の給食を見た群衆が、メシヤの到来を政治力に誤用する方向に動きそうになり、弟子たちまで巻き込まれるのを避けて船出させた。 ② 夜明け前の嵐に襲われ、沖に出られないまま遭難状況となり、波だけを見て恐れていた。心配したイエスが近付いても、幽霊と間違える。(主は海岸を歩かれたのに、海の上を歩くと勘違いする狼狽ぶり)
(2)ペトロの態度
① 真っ先に主を認めて、水に飛び込んで歩き始め、歩けたのであった。
② 途中で目を主から離し、荒れ狂い襲いかかる波風だけに心奪われ、(上体は風に吹き倒されそう、足元の砂は波に掬い去られて転げそうになって)溺れた。
③ もう一度主へ助けを求めた。
愛によって手を差し伸べられるイエスに、しつかり掴まって船に帰れた。
(3)風は静まった。
エスは、その時間帯の環境変化を知っておられた。だから落ち着いて弟子たちに声を掛けられた。弟子たちも過去の経験から(元漁師として充分な知識)行動出来た筈なのに、しかも助け主としてのイエスが来られたのに、慌てふためいた。
私たちは、それぞれの道の専門家である。それでも時には迷いがあり、失敗も起こる。反省してやり直せばそれで済むが、間違いが起こる前に「この場合主なる神のみ旨は」と主に尋ねることにしたい。天地創造と摂理の主は、愛する者のために自分の「身を尽くされた = 十字架の死で贖いとなられた = 澪(みお)つ串(くし)=身を尽くす=主なのであり、従うものを何時までも導かれる、共に生きて居ます方なのです。