2013年8月4日

『 神の計画と我らの祈り 』
                        詩編37:4〜7
 聖書が教えている神のご計画には「神の最善がなる」という約束がなされていることが特徴です。しかし、神の私たちへの最善が、私たちの目には最善のようには到底思えない場合が多いことに戸惑いを覚えます。
 創世記からヨハネの黙示録を通してたくさんの信仰の先輩の姿から、「神の最善のご計画」を前にして、時には喜びと感謝の讃美を、時には反抗し、時には涙をもって叫び求める姿を見ることができます。神の前に一人も、何もしないでただ神頼みの姿勢をとりませんでした。彼らは納得のいくところまで心を尽くして神にしがみつき、耳を開いて聞こうとしました。聖書はそのことを祈り」と教えているのです。祈りとは「父なる神の御心と私たちの思いを合わせる時であって、神の御心と私たちたちの思いを合わせる場である。」と言えましょう。神に私たちの願いばっかり求めるのが祈りではありません。父なる神は私たちの祈りを通して御心を私たち神の子どもに示してくださるのです。神の家族の皆さんはこの祈りの恵みを生きているでしょうか。
 私たちは信じています。神は全宇宙、全世界のすべてのことにご計画をもっておられ、ご計画の通りに導かれるということを。そして神のご計画は世界だけでなく、私たち神の家族の群れである教会と私たちキリスト者一人一人の人生においても同じくご計画をもっておられるということです。そして、一つ確かめたいことがありますが、私たちが祈らなければ、神の御心を知ることもできませんし神の私たちの人生に予定されていることに合わせることもできません。私たちが祈ろうとしないのであれば、神のご計画、神の予定とは関係のない人生を生きることになるのかもしれません。愛する神の家族の皆さん、神は祈っている人に語り、祈っている人と御心を分かち合い、祈っている人の祈りを通して時にはご計画を変えられたり、時には変わらないご計画の理由を教えてくださるのです。祈らなければ神の最善のご計画を知ることはできないのです。ハレルヤ!