2013年9月15日

『 捕らぬ狸の天国論 』 マタイ20:20〜28 北 芳正牧師
はじめに 「捕らぬ狸の皮算用」とは、不確実な事柄に期待をかけて、そこから何かを計画していく愚かさを言うが、信仰を後回しにして功徳のみを求めるとしたら、似たりよったりである。

(1)弟子たちの野望
此処では弟子たちとその母親とが、イエス様にお願いしている。主は、弟子たちが自分たちの間違い気付くようにと、確認の形で問いかけられている。右と左の席とは主に最も側近い、いわば支配者の席望みであり、野望と言うしかない要求なのであった。天国にもこの世と同じ権力争いがあり、勝ち側に立ちたかったゼベダイの子たち(ヤコブヨハネ)であった。
(2)イエスの御自分の受難死と、殉教苦難=苦杯=の予告
メシヤの戦いを、政治的な独立や支配権の回復・穫得としか考えず、イエスの奇跡も其れに利用しようする者に、ご自分の十字架にしか贖いが無いことを伝え、弟子も巻き添えになって、殉教死となる可能性と覚悟を予告されるイエスであった。
(3)弟子の資格の前提条件
この世での支配者たちは、「民を治め、偉い人たちは権力を奮う」。しかし主の国=天国=は、偉くなりたかったら仕える者となり、頭になりたければ、僕となることが、前提条件となることを、イエスは期待されている。現実の中での信仰生活を求められるイエスに、己の利益に適合する「神の王国」へと先走っている弟子たちの実態であった。

(おわりに)
神が独り子を世に賜ったのは、御子を信じる者が一人も滅びることがないための、神の愛に基く「救い」の最終手段だったのである。それと同じように、功徳のみを求めて彷徨する愚者とならず、神の賢さにぬかずく、「奉仕者」「僕」に成れるよう祈ってほしい。確かに主の国が到来するのは近いが、神の領域に踏み込むような、考え行動を捨てたいものである。