2013年10月6日

『 主にのみ、望みをおく 』  詩編40:1〜10   閔 丙俊牧師
 私たちは何かを待ちながら生きています。それが人生です。人生は待つということが絶えず連続して続くものと言っていいでしょう。ある人は「最愛の人を、ある人は宝くじの当たるのを、また、ある人は大学や就職先からの合格通知を待っているでしょう。特に、今の季節を生きる農夫にとっては一年間の労苦の実としての素晴らしい収穫を待っているはずです。それでは、あなたは今何を待っていますか。
 今日の詩人は「主にのみ、わたしは望みをおいていた」(2節)と告白します。ここでの「望みをおく」という言葉は、漠然としてただ何かを望むものでなく、「あることが成し遂げられるまで揺らぐことなく待ち続ける」という意味です。即ち、「主のみ、来てくださるのであれば何も欠けるものはない!」という証しでした。
 続けて詩人は、「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」と告白します。「待つ」という行為は二つの形で現れるでしょう。「静かに待つか」、「叫びながら待つか」です。「静かに待つ」という信仰の姿勢は、外見的には消極的に見えるかもしれませんが、実はとても強い信仰の現れであります。もう一つの姿勢として「叫びながら待つ」という信仰姿勢があります。これは人生の瀬戸際に立たされている人の取る姿勢です。神の助けを求める人間側からの積極さと必死さの現れです。
 いよいよ神の応答の時が訪れました。神は詩人を「滅びの穴、泥沼」から引き上げ、揺るぐことのない大きな岩の上に立たせてくださいます。(3節)今までの試練は祝福に、嘆きは感謝の祈りに、涙は賛美に変わる時が訪れたのです。ここでの岩とは、「神の守りによる真の安息と平和で満たされる場所」を意味します。
 それでは、神の岩に立たされた人に求められるのは何でしょうか。神の求められるのはただ一つ、「あなた」です。神はあなたが主の御前に近づいて、
「新しい讃美と礼拝、また、生きた証し」をもって神の栄光を現わす
のを期待し待ち望んでおられます。ハレルヤ!